
まずは、今回の支援物資の募集にあたり、全国のたくさんの物資を送ってくださった皆さま、
本当にありがとうございます。
あまりの多さに、車に積みきれなかった分もあったんですが、
とりあえず昨日積んでいった第1便の物資は、すべて受け取ってもらえてることができました。
近日中に、第2便でまた持っていこうと思っています。
心よりお礼申し上げます。
さて、皆さんからの支援物資がどうなったのか、気になっている方がたくさんいらっしゃると思い、
現場の現状や今後のことについての事を記事にしようと、
朝から何回も記事を書こうとしたんだけど、あまりにも書きたいことがたくさんあるのと、
現場でのいろんなギャップに面食らったのとが交錯して、なかなか記事にできない。
だから、今後の支援についてのことを書く前に、
一度、時系列で先に報告記事を書こうと思う。
昨日の4/10、今回は、俺の高校の後輩石橋くん、
俺の
パートナーの雪音さんと3人で、女川と七ヶ浜に行ってきた。
震災直後から物資支援で動いている平くんに指示を仰いだところ、
この2ヶ所に言ってくれと言われたのだ。
前日の9日、当初想像したよりもはるかに多い量の物資が届いたので、
仕分けをしないと、配るのにも困るし受け取ってもらえない場合もあると思い、
まくろび庵の和室で独りでせっせこと仕分けをした。
宅急便の送り状や、メッセージを一つ一つ読みながら、
ありがたさに胸がいっぱいになりながら仕分けさせていただきました。
で、当日は、朝7時にまくろび庵を出発。
渋滞覚悟で向かったんだけども、三陸道で少し流れが悪くなったものの、
順調に進むことができ、約2時間くらいで女川に到着。
山の手は多少地割れなんかがあったものの、至って普通の景色だったが、
女川の港の方に出た途端、景色が一変。

がれきの山。
震災直後、ラジオで「沿岸部が壊滅」と言っているのを聞いて、
「なにをバカな・・」と思っていたんだけど、
本当に、壊滅としか言いようがない、凄まじい光景だった。
平くんが、「日本人なら一度は見ておけ」とBLOGに書いていたが、
いやー、全くだ。
この光景が現実なのだ。

倒壊して流れたビル。

現場で途方に暮れる自衛隊員。
まずは、女川地区で一番大きい避難所である、女川総合運動場に行ってみた。

メインのグランドは、自衛隊ヘリの発着地点になっていた。
ここでまず、災害対策本部に物資を届けにきた旨を伝えたんだけども、
食料(主に米)、水、衣類などの最低限の物資は足りているし、
文具も、先日、ユニセフから大量に送られてきたので大丈夫だと、遠回しに断られた。
実際、倉庫がわりになっている建物の中には、
ドドーンとケースに積まれた大量の物資の山が。
特に、衣類に関しては、とてもピリピリした感じで、
「どんな衣類ですか?」「新品ですか?」と聞かれた。
ただし、副食品は大歓迎だと言われた。
※今後の支援物資のことは、別記事に書きます。
この避難所には、大人数にもかかわらず、外部からのボランティアセンターが無く、
町民の人たち(主に役場の職員の方や学校の先生など)が、
自分たちで切り盛りをしている。
しかし、あくまでも俺が感じた印象なんだけども、
災害対策本部と、それ以外のグループとの連携があまりうまくいっていない感じがした。
本部にはやんわりと断られたわけだけども、引き下がるわけにはいかないので、
教育長さんを通じて、子供たちの文具だけでも受け取ってもらえないかと交渉。
すると、教育長さんは、教育現場の方々(たぶん学校の先生だと思う)につないでくれ、
受け取ってもらえることに。
で、数人が車まで、「降ろすの手伝いますよ!」と来てくれたんだけども、
他に、長靴やゴム手袋、下着類とかあるんだけども・・と言ったところ、
「実は私たち職員が作業するための物資が無くて困ってたんですよ・・。」と、
受け取ってくれた。
やはり、避難所に避難している方が何よりも優先されるので、
職員の方々が後回しになっちゃうのかなーと、勝手に想像した。
で、その他、ビタミン剤やお菓子類、ハンドクリームやリップクリーム、
絆創膏を始めとした薬類などなど、大変喜んで受け取ってくださった。
その後、少し避難所の聞き込みをしようと、ある方に話しかけたら、
親切に避難所をいろいろと案内してくれた。
その人も、職員の方も、口を揃えて言うのは、
子供たちにだいぶストレスがかかっていると。
先日、やっとテレビがひとつ設置されたんだけども、
学校の図書室にある本を持ってきて読む以外、
子供たちに遊ぶものや娯楽が無いんですよと。
確かにな−。
これは今後の課題だ。
避難所の人たちは、天気が良かったこともあり、
皆明るく、元気に見える。
話しかけると、屈託無くいろいろと話してくれる。
だけど、一度話し出すと、地震や津波の恐怖、失った家族や友人のこと、
今後の先の見えない不安、行政に対する怒りなどがブワーッと出てくる。
俺もりえさんも、人の話を聞いてケアするのが仕事でもあるし、
後輩の石橋くんも、そういう話を聞くのは慣れているので、
とにかくうんうんと聞いた。
頑張ってくださいなんてとても言えない。
到底そんな段階じゃない。
震災から1ヶ月経ったけど、被災者の心の傷はそう簡単に前に向かない。
だから、俺も最近、ACのCMを見てると、ムカついたりする。
ひとしきり聞いたあと、ちょっとダジャレを言ったり、
俺がボケ、りえさんがツッコミを入れ笑わせたりする。
「わざわざ仙台からありがとうございます」
と、恐縮する人には、
「困ったときはお互いさまだべっちゃ!」
「仙台で大災害があったら助けに来てけさいんよ!」
と言って笑いを取ったりした。
俺たち3人の中で、「頑張ってください」「頑張りましょう」は禁句。
っていうか、言えないって。頑張ってなんて。
だから、ありがとうと言われたら、ありがとうと返す。
それでいい。
ある人が言っていた。
女川は出遅れたんだ。
南三陸とかは、町長が真っ先に「助けてください」って手を挙げたから、
支援もすぐ来たし、仮設住宅も早い。
女川は、未だに仮設住宅をどこに建てるかすら決まっていない。
物資が入って来るのも遅い。
モタモタしないで早く助けてって言えば良かったんだ。
体育館では、ガラスが割れて風がピューピュー入って来るから、
お年寄りが寒い寒いって言っている。
だけど、それすら直せる目処が立たない。
と、怒っていた。
その人は、震災直後、まる2日何も食べられなかった。
「俺はまだいいんだけど、お年寄りは・・・」
と、言葉を詰まらせた。
確かに仙台も、震災直後はとんでもなかった。
今だって大変だ。
余震で何回も心が折れそうになる。
だけど、ランク付けするわけじゃないけど、
食うことすらままならなかった人の生の声を聞くと、やっぱり胸が痛む。
申し訳ない気持ちにもなる。
その人とは再会を約束して別れた。
その後、津波が来た地区をたまたま通りかかったところ、
かろうじて家が流されなかったS地区で、自宅を復旧している小さな部落があった。
車を停め、「物資持ってきたんだけど、もらってけねぇすかや?」と言ったところ、
「下の部落にはよく物資持ってきた人がいたけど、こっちに来てくれたのは初めてだやー!」
と、すごーく喜んでくれた。
近所の人たちにも声掛けしてくれて、露天商状態でわーっと人が集まってきた。
みんな、気に入ったものをうれしそうに持っていってくれる。
来てよかったー・・・。
報われた感じがしたね。
その、中心になってくれた、Aさんちのおかあちゃんも、
ケラケラと明るいキャラで話していたんだけども、やはり津波の話になると、
「私の友達とか同僚とか、みーんな流されっちまった・・。」
と、涙ながらに話してくれた。
震災後、ずーっとこういう思いを心にしまい込んで、
黙々と復旧作業をしてきたんだろう。
初めて会った、見ず知らずの俺たちに見せた涙。
よほど辛かったんだろうな。
今度は、もっとじっくり時間を取って、Aさんの話をいっぱい聞いて、
いっぱい泣かせて、心に閉じ込めてあるものを吐き出させてあげたい。
Aさんの地区では、なんとか家が大丈夫だった数世帯に、
35人の人たちが、家の復旧をしながら住んでいる。
Aさんちも1階は津波でやられたけど、2階は何とか使えるからと、
家族みんなで2階部分で生活している。
今後、女川に行くときには、このAさんちには必ず顔を出すことにした。
この生き残った35人の部落の中心となる家だ。
この、Aさんちの地区支援プロジェクトもいいアイディアが浮かんだので、
別記事の支援方法に書こうと思う。
Aさんちを後にして、まだ物資が少し残っていたので、
ちょっと広い道路に車を停め、次に行くところをどこにしようかとナビで検索していたとき、
通りすがった車の方が話しかけに来てくれた。
薬剤師会の方々で、石巻に拠点を置き、
薬が欲しいという要請があったところに届けるというボランティアをされている。
その方々が、
「あー、その物資だったら、
これから僕たちが行くところで受け取ってもらえると思いますから持っていきますよ!」
と、引き受けてくださった。
そこで、残りわずかとなった物資を、その方々が受け取ってくれたので、
持っていった物資はすべて無くなって、ミッションコンプリート。
本当に助かった。
もし、石巻周辺(女川も含む)で、薬が必要な方、施設、避難所等がありましたら、
「石巻高校薬剤師会本部」まで連絡してください。
すぐに駆けつけてくれるそうです。
電話番号は、090-4047-6166 乙田さんです。
今回は、一度、災害対策本部で断られたものの、
職員の方々が受け取ってくださったり、
偶然にもまだ誰も行ってなかった、Aさんの地区に導かれたり、
思いがけず薬剤師会の方々が中継してくれたりと、
ラッキーにラッキーが重なって、すべての物資をお配りすることができた。
だけど、毎回そうだとは限らないかもなーと、
あらためて物資支援の責任の重さを感じたのだった。
あとは今回、りえさんが一緒に行ったことで、
女性が警戒心無く、すぐに心を開いて話してくれたのが大きかったなー。
おかげで、いろんな情報収集ができた。
さて、そんなこんなで、女川を後にして、
仙台に比較的近いところで、被害が甚大だった、七ヶ浜町を回って、
情報収集して返ろうということになった。

女川港の巨大な油のタンクが転がっていた。
帰りは、石巻港を通って帰ってきたんだけども、

沈下した地面に落ちる列車。
この辺の被害も凄かったなー。
そして、七ヶ浜町。

海岸にあったガソリンスタンド。

遺体捜索中、あまりのがれきに途方に暮れる自衛隊の人。

遙か向こうに見える灯台が、なんと傾いている。
津波の威力って本当に恐ろしい・・。
さて、七ヶ浜町は、災害対策本部の他、県外から来たNPOのボランティアセンターと自衛隊が、
がっちりと連携ができていて、女川と対照的な印象を受けた。
物資も潤沢で、ボランティアセンターのスタッフが、
物資の仕分けやニーズの交通整理役をやっている。
また、在宅避難者の把握もバッチリできており、隙が無く、俺たちの出る幕無しといった印象。
念のため、在宅避難者のいる地区に聞き込みに行ったんだけども、
実際、モノには不自由していないと言われた。
実際、そのお母さんの家の数メートル先は壊滅的なのにもかかわらず、
お母さんは、きれいな服を着て、バッチリと化粧をしていた。
電気も復旧したみたいだし、
ちょっと移動すれば、近くの商店にはもう物資が来ているから買い物ができる。
町内の別なガソリンスタンドは、普通に営業をしていた。
ガソリン渋滞など皆無。
しかも、女川では、仮設住宅を建てる場所すら決まっていないというのに、
七ヶ浜には、もうすでに仮設住宅が完成間際だった。
七ヶ浜町は、役場も高台にあるし、都市機能は完璧に機能していて、
「強い町」といった印象だった。
ということで、こんな感じで、1回目の物資支援が終わりました。
記事中にも何回か書きましたが、今後、ちょっとこれからの支援の仕方を変えます。
それは、別記事にまた新たに書きますので、もうちょっとお待ちください。