このBLOGに何回も書いているが、俺は昔、トラックの運転手だった。
トラック時代のエピソードは、カテゴリ「嗚呼トラック野郎」でどうぞ。
23の時に結婚し、
それを機に、大型免許を取ってサラリーマンから転身したのだ。
時代は、まだバブルの名残があったから、仕事はたくさんあって、
トラック未経験でも雇用してくれる会社が多かった。
それまで、4トン車だって運転したことがなかったのに、
佐川急便の路線便で主に名古屋まで走る長距離で、
いきなり10トン車に乗ることになったのがはじまり。
それまで、サラリーマンのぬるーい世界から一転、
男臭く、荒い環境に飛び込んでしまったわけだ。
最初に入った、佐川の路線便の会社は、今思えばとても条件が良かったんだけど、
当時、新婚だったこともあり、長距離で家を空けっぱなしが辛かったんだよね。
なので、10トン車で長距離を走るよりも、
さらに大きいトレーラーで中距離(関東圏)を走った方が、
給料は同じくらいでも、家に帰る機会も増えるんじゃないかと考えた。
そこで、かなりきつかったんだけど、
長距離で仙台に帰ってきた合間の時間で自動車学校に通い、
けん引免許を取った。
そして、仲の良かった無線仲間の口利きで、
仙台港界隈では仕事がきつくて有名な会社に、
求人なんかしていないのに、半ば無理やり雇用してもらった。
これが地獄の始まりとなったのだった・・。
その会社は、給料は良いけど、仕事はかなりキツイ事で有名で、
新人が入っては、続かなくてすぐ辞めてしまう。
そんな中、俺は久々のルーキーだったわけだ。
入社して間もないころ、ある先輩から、
「新人は、最初、根性試しをされるから覚悟しろよ−。」
って言われた。
そして、その助言通り、入社してすぐ、とにかく配車係の根性試しが始まった。
あたりまえのように、関東便の折り返し。
月曜→仙台〜宇都宮
火曜→仙台〜那須
水曜→仙台〜千葉
木曜→宮城県内便3本
金曜→仙台〜東京
土曜→東京〜八戸
みたいな、
「俺はいったい、いつ寝ればいいんだ?」
っていう、とんでもない配車。
今では考えられないね。こんなの。
長距離の時より家に帰る機会が増えると、希望に満ちて就職したわけだけど、
その希望は粉々に砕け散った。
しかも、トレーラーだし、北海道の荷物を扱う会社だったから、
パレット積みとかなくて、ほとんどが手積み手降ろし。
さらに当時は、今ほど過積載にそんなに厳しくなかったから、
30トンだの40トンだのあたりまえ。
米だの肥料だの野菜だのジュースだの冷凍食品だの、
全部手積み手降ろし。
なんで北海道便なのに関東圏に走るのかは、この記事をどうぞ。いやー、眠い目をこすりこすり走って、
着いたら終わりじゃなくて、そこから何十トンもの荷物の積み卸しをしなきゃないのだ。
そりゃあ、新人が入ってもすぐ辞めていくわなー。
俺の後にも、何人か新人が入ってきたが、
パンチパーマでガタイが良くて気合いが入ってそうなヤツも、
1日も持たずに辞めていくなんて、ザラにあった。
そして、そのキツイ配車に加え、先輩たちのイビリ。
それまで、佐川の路線便だったから、箱車しか乗ったことがない。
だから、平ボディでロープ掛けとか、シート掛けとか、全くやったことがない。
そんなもんだから、とにかく何をやっても遅い。
いつも先輩に怒鳴られていた。
「まったく使えねぇヤツだ・・。」と、面と向かって言われたこともあった。
それなのに、当時の俺は、いっちょまえにヒゲを生やし、
茶髪や金髪にブリーチし、ヤクザメガネをかける、そんな成りだったから、
生意気に映ったんだろうな。
だから、荷主の場所を先輩に尋ねても、知ってるくせに教えてくれなかったり、
「どうせ辞めるんだろ?」みたいに嘲笑されたり、
いい年したオッサンたちがチクリチクリと責めてくる。
当時の俺の職場には、元ヤクザや現役ヤクザ、
元犯罪者や、多額の借金を背負った人、人を殺してしまった人などなど、
まーずバラエティに富んだ人たちの宝庫。
しかし、そのキツイ仕事を何年、何十年とやっている、
要は、「生き残った」人たちで、一言で言えば「猛者」だ。
ある意味、クレイジーな人たちだ。
みんな丸太のような腕をしてたし、ケンカしてもかなわないだろうな-と。
正直、面食らった。
こんな世界があり、こんなクレイジーな人たちがいるのかと。
悔しくて、すべてにおいて敗北した気分。
毎日が灰色。
その会社に入ったことを何回も後悔した。
だけど、友達に口利きしてもらった手前、辞めるに辞められない。
友達の顔にドロを塗りたくなかった。
ある先輩に、仕事を覚えるまでどのくらいかかったか聞いたら、
「2年かかった。」という答えが返ってきた。
「2年かー・・。長げーな・・。」
とは思ったが、
「よーし!とにかく仕事をガシガシやって、早く仕事を覚えて、
2年経ったら、こんな会社辞めてやる!」
というのを目標に、とにかく仕事をした。
配車係から、メチャクチャな配車をつけられても、
絶対に「できない」とか「不満」は言わず、淡々と仕事をした。
シート掛けやロープ掛けは、スピードよりも、安全性や丁寧さを重視して、
とにかく時間がかかってもいいから丁寧にやろうと決めた。
一ヶ月、また一ヶ月と経つたびに、
「今月もやれた。」「今月も大丈夫だった。」と、経験が積み重ねられると同時に、
それが自分への自信に変わっていった。
先輩と現場で一緒になっても、怒鳴られたりすることが無くなっていった。
そんなこんなで3か月、半年と過ぎるうちに、
「おー、わこう、明日はどこや?」
「いやー、しかしオメー、よく走るよな-。」
「いつまで配車係の根性試しが続くんだかな!ガハハ-!」
と、先輩たちから声をかけられるようになった。
いやー、なんか、はじめて自分の存在が認められた感じがしてうれしかったねー。
入社したてのころチクチクいじめられた事なんて、もうどうでも良かった。
そんなこんなのうちに、入社から10ヶ月目。
やっと俺の後に、ガッツのある新人が入ってきて、根性試しはその新人に向けられ、
ちょっとだけ仕事がラクになったのだった。
後輩ができると、俺も負けてらんねぇって思って、ますます仕事を頑張る。
そして入社から2年。
会社からも先輩からも認められるようになり、
その後の新人指導なんかを任されるようになった。
2年経ったら辞めてやるって思っていた会社だったが、
気がつけば、とても居心地がいい場所に変わっていた。
人間関係も円滑。
その会社では、人間性ももちろん見られるけど、
それよりも、仕事ができるかどうかが価値基準だった。
そういう意味で、俺は生き残ったわけだ。
先輩たちの腕を見ては、いつも「丸太みたいだなー。」って思っていたけど、
いつしか、俺の腕も丸太になっていた。
Tシャツの袖がパッツンパッツンになってたし。
最初は、人生で最悪の会社に就職してしまったと思ったわけだけど、
結局、5年勤め、最高に楽しんだ。
その後、おふくろから花屋を始めると突然の連絡があり、
それを手伝うために、トラックを引退することになったわけだ。
花屋への転身の話は、この記事をどうぞ。結局、その会社での5年間を振り返ってみてつくづく思うのは、
人は、どんな環境にでも順応する力が備わってるんだな-っていうことだ。
入社当初、人生灰色、もう地獄以外の何物でもなかった会社が、
退社の頃は、離れがたく、とても大切なものになっていた。
もちろん、積み上げていったものもあったわけだけど、
それよりも、俺の中の意識が変わったから、俺から映る世界が変わったんだと思う。
基本的に、会社も人も変わっていない。
変わったのは俺だ。
俺の捉え方だ。
だから、否定的だったものが、180度ひっくり返って大切なものにシフトする。
答えは自分の中にある。
そして、多少時間がかかっても、必ず人間は環境に順応していく。
だから、出口が見えないようでも、必ず出口がある。
宇宙の法則の中にも、
「始まりがあれば終わりがある」
というものがあるけど、聞けばあたりまえに聞こえるけど、
これはとても深いな-と思う。
もちろん、ポジティブな終わり方もあれば、ネガティブな終わり方もある。
だけど、どうせだったらいい結果を作りたいよね。誰だって。
だから、一日も早く意識をシフトして、順応していけばいいのだ。
だって、誰も何も変えてくれない。
自分に映る世界は、自分で変えていくしかないのだ。
社会がどうだだの、あの人がどうだ、会社がどうだという前に、
自分がシフトした方が早い。
そして、さっさと順応してしまえば、したもの勝ちだ。
と、そんなことをトラックの運転手を通じて学んだのだった。

現役のころの俺。