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2011年12月16日

【回想録】新人類。


今日、いつも読んでいるモデラーさんというか、造形師さんのBLOGを読んでいたら、
おもしろい記事がアップされていた。

みどうじさんという方の「mdsp」というBLOG。
おもしろいんだー。


mdspさんの記事はこちらからどうぞ。



みどうじさんがどのくらいの年代の方かはわかんないんだけども、
どっちかというとこっち側(?)の世代の人かなーと感じている。


今回の記事では、ついに職場にゆとり教育世代の新人が入ってきて、
その驚きの感覚に物申している。

いやー、笑った。



が、しかし。

しかしだ。



思い返すと、俺も案外人のこと笑ってられねーなーと。


高校を卒業して初めて入った会社では、とにかく遅刻大王。

毎週月曜日には、全社員が集まっての全体朝礼があるんだけども、
みんなが社歌を歌っているころに、当時乗っていたCBX400(ヨシムラサイクロン付き)で、
クオーンと会社の前に横付け。

毎週ひんしゅくをかい、主任によくひっぱたかれた。


ひげを生やすなんて御法度だったが、18とかでひげを生やし、
社長に剃れと言われても、

「ポリシーですから。」

って言って結局最後まで剃らなかった。



今思うと、本当にバカだな。

バカの極みだな。




トラックの運ちゃんになりたてのころ、俺が走っていた佐川急便の路線はツーマン運行だった。


初めての「航海」(業界用語)の前日、
本当はしっかりと睡眠をとれと上司から言われていたにもかかわらず、遊びほうけた。

そのまま仕事に行き、本当は、

仙台から東京の佐川へ→そこで2人で積み込み→積み込み完了後、静岡まで

っていうのが俺のパートで、

その先はもうひとりの運転手に交代して名古屋→三重

というコースだったんだけども、
東京で積み込みが終わった時点でもう眠くてフラフラ。

一応そのまま出発したものの、首都高の渋滞にはまってもう眠さの限界・・・


という事態に陥った。



そのとき、もうひとりのドライバーSさんは、
積み込みが終わって寝る気まんまんでいたわけだけども、
俺がもうフラフラだったもんだから、そりぁもう、あり得ないぐらい激怒したわけですよ。

結局運転を代わってもらい、残りのすべてのコースを走ってもらった。


で、本来なら、申し訳ないから助手席で少し仮眠したら、
運転を代わるくらいの意気込みを見せるのが筋だと思うんだけども、
あろう事か俺は、「じゃ、よろしくお願いしまーす!」と言って、後ろの寝台で堂々と寝た。

しっかりと寝た。


そのときのSさんの、般若みたいな顔は忘れられない。



いやー、とにかく若かったな。
23くらいのときだ。


申し訳なかったなー。

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当時の俺。23歳くらい。



俺らのころは、「新人類」って言われたよ。

何考えてるかわかんないって。



まぁ、そうやっていろんな人に迷惑をかけてきたわけです。



覚醒したのは、その会社を辞めてトレーラーの会社に入ったあたりかなー。

とにかく地獄のような配車と先輩のいびり。


でも、友達に口利きしてもらって無理矢理入った会社だから辞めることもできない。
仕事を「できません」と放棄するわけにもいかない。


とにかく淡々と仕事した。


その辺の事は、去年過去記事に書いた。

その記事はこちら。



そして、会社の中である程度認められる存在となったら、俄然仕事が楽しくなった。



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これは別な意味で楽しいわけだけども。(27歳くらいのときかなー。)



とまぁ、みどうじさんのBLOG記事を読んで、いろんな事を思い出していたわけだけども、
いつの時代もこういう話ってあるもんだよな。たぶん。


だけど、おかあさんに相談した上で残業しないとか、
入社半年でだいたいわかったから部署替えしてくれとか、やっぱりありえねーなー。


俺も当事者だったらぶん殴っちゃうかもなー。(笑)


とにかくがんばれ。新人。


 
posted by わこう at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 回想録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月25日

【回想録】昔、小人見たよ。


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先日、ラピュタのロボット兵のプラモを作るのに、
やはり実際に作品を見てモチベーションを上げるのがいいかなーと思い、
DVDを借りてきたんだけども、一枚だけ借りてもなんだかなーと、
ジブリ作品をいろいろ借りた。



その、何枚か借りた中のひとつ、「借りぐらしのアリエッティ」を昨日見た。

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古い家に住む小人と人間のふれあいの話。


パッケージを見ると、なんだかピンとこないというか、
おもしろそうじゃなく見えるんだけども、いやー、おもしかったわー。


小人が人間の家に住みつき、
家にあるものを借りて(いただいて)共存している、そんな話。


小人の家を出発して、いろんなルートを通って、欲しいもののある場所へ。
角砂糖だったりティッシュだったり。

そして、ちょっとだけ拝借して持ち帰る。


それが、小人にとっては大冒険なわけだ。


いやー、おもしろかった。



しかし、俺はこの映画を観て思い出したことがあり、
さらに、なんか自分の中で「やっぱりか!」と、妙に納得してしまったことがある。


俺は子供のとき、小人を目撃している。



あれは、4歳くらいだったかなー。


当時、俺たち一家は、おやじ、おふくろ、俺、妹と、四人川の字に寝ていたんだけども、
ある朝ふと目を覚ますと、隣で寝ているおふくろのふとんの上で、何かもぞもぞ動いている。


ジーッと目をこらしてみると、それは二人の小人だった。


ちょうど、アリエッティの映画の中の小人と同じくらいのサイズだ。



今まで、何人かの人にこの話をしたことがあるが、
全員に同じことを聞かれた。


「どんな格好だった?」




で、おれはこう答える。


「ふつうのシャツにスラックスみたいなズボン・・・」


っていうと、たいがい、


「わははー!そんなわけねーっちゃー!」


といって、笑い飛ばされる。




だけどさ。


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ホント、こんな感じだったんだよ。
アリエッティのお父さんみたいな。

で、ふとんの壁を一生懸命登ってるんだよ。



いやー、4歳くらいだったから、怖くて怖くて・・・


で、その小人は最初俺の方に背を向けてたんだけども、
俺が見ていた気配を察したのか、おそるおそるこっちを振り返って・・・



俺はなんか見ちゃいけないと思って、そのまま目をつぶった。
こう・・目が合っちゃいけないというか、怖かったんだよなー。


で、怖くて怖くて、目を開けられなくて、そのまんままた眠ってしまった・・・



そんなつまらないオチです。




夢だったのかなんなのか、本当なのか幻なのか、
正直今でもわからない。


だけど、アリエッティを観て、

「やっぱりホントだったのかもしれない・・」

と、思える。



日本は昔から、八百万の神という考え方があって、
山には山の神様がいて、川には川の神様がいて、
そういうたくさんの神様たちと共存しているという思想。


俺はこの考えが大好きだ。


そして、そのいろんな神様が、姿形を変えて我々の前に姿を現すことがある。

それが、水木しげる先生の書く妖怪だったり、
ジブリ映画に出てくるトトロなどのような不思議な生き物だったり、
そして、俺が子供の時に見た小人だったりするんじゃないかなーと、
個人的にはそう考えている。


ロマンティックなものから、ドロドロしたものまで、
いろーんな神様が、いろーんな姿で現れる。


そして、アリエッティの中に出てくる、お手伝いのおばさんのように、
本当は共存するべき世界の均衡を崩して侵そうとしたりするのが、
人間の業なのではないかと。

そういう意味では、ジブリ映画はそのあたりの表現が非常にうまいよなーって思う。


そーっとしておけるものはそーっとしておいたり、
別々な世界があるんだということを受け入れたりしていることが大切というか。

暴いて、知って、制することだけがすべてじゃないというか。


だから、地球外生物の探索は、ロマンにあふれるものだけれども、
基本的に、やっちゃいけないことなんじゃないかなーと思ったりする。


わかんないけどね。


と、アリエッティを観ながらそんなことを考えていた。





アリエッティの中国版(?)トレイラー。

「借物少女」っていうのがおかしいなー。(笑)




 
posted by わこう at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 回想録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月03日

【回想録】バイクと泥棒と。


先日なにげに手にした一冊の雑誌。


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いやー、この雑誌、たまーに忘れた頃に買うんだけど、
これ読むと無性にバイクに乗りたくなっちゃう、罪作りな雑誌だ。(笑)


2年前、当時乗っていた車、フォードのモンデオが、
まだ走行6万キロなのに、タイミングベルト切れでまさかの廃車。

急遽、車を買わなきゃいけないハメになって、
その次の車、アストロくんの購入資金を作るために、
10年間所有したバイクを泣く泣く売った。





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これね。

カワサキのFX400R 改。

ビキニカウル付けたり、ワンオフのスーパートラップマフラーだったり、
無理やり付けたアンダーカウル、キャブのオーバーホールから点火系、駆動系と、
ちょこちょこいじって仕上げた、お気に入りのバイクだった。

手放すまでの過程は、この記事でどうぞ。


今でもまた乗りたいなーと思う。

しばらく忘れていても、BGを読むとまたバイクに乗りたくなる。



やっぱりバイクいいなー。




グーッとさかのぼって、中学生の頃、
ちょうど、ヤマハがRZっていう、当時としてはセンセーショナルなバイクを発売し、
一気に各メーカーがすごいモデルを投入。

あの頃、バイク業界がすげーアツかった。

で、中学生の俺は、友達とバイク雑誌を眺めては、ため息をついていたもんだった。




それから数年後、就職した会社の同僚から、願ってもない話が舞い込んできた。


乗らないバイクがあるから買わないかというのだ。



そのバイクとは、






cbx400f.jpg
これ。

ホンダのCBX400F。
しかも、友だち価格で、今では考えられない激安で。


しかもしかも、ヨシムラの集合管に、純正カラーに塗装されたシングルシート、
ビートのジェネレーターカバーに、ハリケーンのセパハンなどなど、
なかなかシブイチョイスで、実にキレイなバイクだった。


このCBXって、スゲー乗りやすいバイクで、
自分が運転がうまくなったように錯覚させる、本当にいいバイクだった。


通勤にも使っていたし、とにかく乗りまくっていた。



ところが・・・



ある日、通勤で使おうとバイクを見たら、なんかおかしいんだよ。

バイクが魚のホネみたいになっている。


近づいて見てみたら、いろんなパーツが盗まれていた。

前の晩までは大丈夫だったのに・・・。


シングルシートにサイドカバーにジェネレーターカバー、
集合管とセパハンは、かろうじて大丈夫だったものの、外そうとした跡があって、
ボルトの山が潰れて回らなくなったりしていた。



一気に血が沸騰するような怒りがこみ上げる。






誰だ!?

コンチクショー!




当時、俺、二十歳。


車も持っていたから、ちょっとヤン車チックなスカイラインジャパンに乗り込んで、
爆音響かせて近所を流す。


ちょっとヤンキーっぽいバイクを見つけると、どこまでも追っかけていって、
無理くりバイクを停めさせ、いきなりケンカ腰で尋問。


「CBX乗ってるヤツ知り合いにいねーか?」


ちょっとでも反抗的な態度とったら、とことん鉄拳制裁。


相手が泣きながら土下座するまでやめなかった。




何人かおんなじ事をやったが、結局誰も知らないという。




今思えば、
全く関係ないのに、被害に遭ったお兄ちゃんたちにとってはいい迷惑だ。


で、ダメ元で警察に被害届を。


おまわりさん曰く、むしろバイクそのものが盗まれたんだったら、
見つけられる確率は高いが(車体番号とかで)、
パーツはたぶん窃盗団が売りさばいてるだろうから、見つけることはまず不可能だと。



ガッカリ・・・。



結局、お金をかけて復旧した。




が、またサイドカバーが盗まれた。




当時、CBXのサイドカバーって、貴重だったこともあり、
本当によく盗まれた。

別の知り合いのCBX乗りも、「サイドカバーは消耗品」って言っていた。

それだけよく盗まれたわけだ。



で、何度か、車の中に木刀持って潜んで、バイクの前に張り込んだ事もあったが、
そういうときに限って盗みに来ないんだよ。

その時知った。マーフィーの法則ってヤツを。



結局、そんなイタチごっこが何度も繰り返され、
いい加減イヤになってしまった。


CBXを持っているということ=いつも盗難の危機と背中合わせ


っていうことに、ホトホト疲れ切ってしまった。

もー、ストレス以外の何ものでもなく、お金と体力と精神が削られていく。



で、結局、知り合いのバイク屋に買い取ってもらった。


が、何度もパーツの盗難にあって、あちこちボロボロ。

買い取り額は、ホント二束三文だった。



が、10年くらい前から、CBXって、希少価値がスゲー上がって、
70万だの100万だのってするようになったのね。

いやー、悔しかったねー。


知り合いのガレージにでも保管しておけば、いいお金になったかもしれないのに・・・。



そんな、俺のCBXとの別れは、ぐだぐだの、非常に悔いの残るものとなった。






その数年後。


中学校時代に憧れだったバイクが、
スゲー程度のいい状態でバイク屋さんに置かれていた。

しかも、そこそこの値段で。



RZ350.jpg

ヤマハRZ350初期型。

当時、「ナナハンキラー」という異名を持つ、
世界初、水冷2ストエンジン搭載の化け物バイクだった。

350ccながら、ナナハンを追いかけ回せるくらい、バカッ速だった。


中学校の時、このRZのプラモは3個くらい作ったね。
コンテストで入賞したくらいにして。わははー。


そのくらい憧れのバイク。



もうね、次の瞬間にはローン用紙書いてたね。



とにかく大事に乗った。


トラックの運ちゃんになってから、乗る機会が激減してしまったけど、
当時住んでいたアパートの、屋根のかかった下に大事に保管していた。




ところが・・・



ある日、家に帰ったらバイクが無いんだよ。



コンクリートの柱に、極太のワイヤーでくくりつけ、
特大の南京錠をかけていたんだけど、その南京錠が壊されていた。


またかよー・・・



ガックリきたねー。



一応、警察に被害届を出した。




そしたら!

「バイクが出てきました−。
わこうさんの近所の交番で保管してますから取りに来てください。」



と連絡が!


なんか、警察の追跡を逃れて放棄して逃げたらしい。




ヤッホーイッ!


喜び勇んで、すぐに交番に引き取りに。



「あれです。」


と、指さされた方にあるバイクを見て、


「あ・・あらーん・・・。」


と。




オリジナル性を大切に、このRZはフルノーマルで大事に乗っていたのに、
おまわりさんが指さす方向には・・

ロケットカウルに三段シート、
下品なアップハンドルにハタ棒に付けられた日章旗のダサイバイクが・・・。




オイオイ、やめてくれよー・・・。





「あ、アレ・・で・・すか・・?」


「はい。アレです。」

さらに、

「ウチの交番にも置いておくスペースが少ないもんですから、
すぐに持って帰っていただけますか?」


「えー・・・?」



カギ穴が壊されていて、エンジンがかからないから、
その恥ずかしいRZ350初期型を引っ張って、トボトボと歩いて帰宅。

途中、買い物帰りの近所のおばちゃんたちから奇異な目で見られながら・・。



あのなー、このバイクの価値がわからないヤツが、
中途半端にいじるんじゃねーよ。

だいたいにして、2ストでシナッたってカッコ悪いんだっつーの。



その後、自走ができないから、バイク屋さんに取りに来てもらう手配をしたんだけど、
そんなこんなのうちにまた盗まれたんだよ!



もー、ホントにやんなっちゃった。


CBXの悪夢の再来だ。



しかし、また乗り捨ててあって、すぐに見つかった。


乗り捨てるんだったら盗むなッつーの!




結局、しばらくバイク屋さんにノーマルに戻したまんま預かってもらったんだけど、
また盗難とのイタチごっこなるのを考えると憂鬱になって、
そのまま買い取ってもらった。


これも、買い取り額はあんまり高くなかった。



それなのに、その数年後、やっぱりこのRZ350も希少価値が上がって、
とんでもない値段で売買され始めた。



タイミングが悪いんだよなー。ホント。



やっぱり、人気車種に乗るっていうことは、それなりのリスクを背負うことになる。

もー、こりごりだよ。マジで。




だから、その後のバイクは
DSCN3188.jpg
これにしたんだよ。

俺はカッコイイと思うんだけど、不人気車なんだよなー。これ。

実際、しばらく放置プレイしてても、鼻にも引っかけられなかった。(笑)


盗難なんて皆無。



まぁ、所有している本人さえカッコイイと思っていればいいんだよ。

車もバイクも。




結局、最後のバイクを手放して2年。


また少し余裕ができたら、バイクに乗りたいな−。

車検の必要ない250あたりで。



今、いいなーと思うバイクは、


250tr.jpg
だんぜんこれだな。

カワサキの250TR。人気あるのかな。これ。


夏はアロハ、冬はスカジャンでも羽織って、サラッと乗りたいね。





と、BGを読んで思い出した、ちょっと苦い過去のバイク話。

 
posted by わこう at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 回想録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月01日

【回想録】死と向き合う。


俺の戦友でもあり、おっきい弟のような存在だった、
あべはりさんが亡くなって一年が過ぎた。


まだまだいろんな思いがあるものの、
あべさんの死も、俺の中で受け入れられつつあるというか、
なんとか消化できてきたような気がする。



思えば、爺ちゃんや婆ちゃんや親父といった、身内の死以外にも、
40年も生きていれば、いろんな死と向き合うことも多い。


ちょっと、そんないろんな死を回想してみようと思う。



20年くらい前、俺は、あるマーチングバンドの指導員をしていた。

その、マーチングバンドのメンバーで、当時中学2年か3年だった、
Tちゃんという、明るく活発な女の子がいた。

が、しかし、肝臓を患って入院したと思ったら、
容態が急に悪化し、あっという間にこの世を去ってしまった。


入院時、マーチングのメンバーとお見舞いに行ったとき、
黄疸は出ていたものの、Tちゃんも至って元気だし、
しっかりと治療すれば治ると言われていたので、
俺たちも半ば楽観的に考えていた。


ところがその数日後、あっという間に・・。


病院からご遺体が家に帰ってきたときに、
俺も半ば信じらないながらもお線香をあげに行ったが、
冷たく動かなくなったTちゃんの亡骸の横で放心している、
Tちゃんのお母さんの姿が、今でも忘れられない。

俺は、その時初めて、身内以外の死に直面して、
あまりに突然の出来事に、悲しいも悔しいも、何の感情も無く、
思考が停止してしまった。

どうしていいのか、気持ちをどこに持っていけばいいのか、
当時はわからなかったんだな。




それから約1年後のある日、仙台港の埠頭に車を停め昼寝をしていたら、
まわりが騒がしくて目が覚めた。


海に向かってたくさんの人が叫んでいる。


何かと思って近寄ってみたら、女の子2人が乗った軽自動車が海に転落し、
中で女の子たちがもがいている。


その後、あっという間に海に沈んでいってしまった。

後に、19歳の女の子2人が亡くなったとニュースで知った。


ショックだった。



話は変わって、その後、トラックの運転手になったわけだけど、
当時、俺と年がとても近いKという男がいた。

ただ、Kは、とにかく運転が荒く、
トレーラーのくせに無茶苦茶にかっ飛ばすヤツだった。

ある日、Kと積み込みが一緒になり、

「あんまり飛ばすなよ−。事故るぞ−。」

なんて話をしていたんだけど、その次の日の朝、
Kは、小国峠で、スピードを出しすぎてカーブを曲がりきれず、
崖から転落して死んだ。


Kには奥さんと子供がいたが、葬儀の時の奥さんのあまりの疲弊した姿が、
とても痛々しくて見ていられなかった。



その後、福島県の郡山に住む無線クラブの友達で、
俺よりもずっと年上だった、ニックネーム「花一輪」さんも、
正面衝突であっけなく死んだ。

花一輪さんが亡くなる数日前、郡山で一緒に酒を飲んで、
カラオケを歌いまくって、笑って笑って、本当に楽しかったんだよ。

「わこうちゃーん!また飲もうなー!」

と、にこやかに手を振っていたのが、俺が見た最後の姿だった。


花一輪さんは、体中刺青が入ってて、ボクシングをやっていたのでガタイも良く、
「殺しても絶対死なねーなー。」なんて冗談で言っていたのに、
あっけなく死んでしまった。

お焼香に行ったときは、本当に胸を裂かれるような思いだった。





その後、会社の先輩のYさんも、過労がたたって、
スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれず、田んぼにトラックごと突っ込んで死んだ。

Yさんも、亡くなる日だったかその前日だったか、
会社で会って他愛のない話をした矢先だった。




俺がトラックを引退してからも、俺がトレーラーの会社に入ったときに、
一番面倒を見てくれた、ほまれさんという先輩が、心筋梗塞で、42歳で死んだ。

ほまれさんが死んだときのことは、この過去記事をどうぞ。




その後、俺のトラック時代の仲間、Mさんも、
ある日突然自殺してしまった。

原因は、いろんな憶測があるけど、今でもよくわからない。
遺書も無かったからだ。

奥さんも、「私に何も話してくれなかった・・。」と悔しそうに泣いていた。





と、ここまで淡々と書いてきたが、海に落ちて死んだ2人の女の子の時も、
小国峠で死んだKも、花一輪さんも、Y先輩も、ほまれさんも、自殺したMさんも、
誰かが死ぬたびに、いつも同じことを思った。


俺にできることは無かったのか?と。



そして、もっとこうしていたら・・とか、
こうしていれば防げたかもしれない・・とか、
ネガティブなスパイラルにはまって、どんどんと自分を責めていく。

「たられば」のオンパレード。


もう、とにかく無力な自分がイヤになったりもした。
無責任な自分にも。


しかも、Kや、花一輪さんや、Y先輩とは、
無くなる直前に会っていたり話をしているわけだから、
「俺はひょっとして死神何じゃないか?」と、真剣に思ったりもした。

逆に考えれば、なんで死ぬ直前の人たちと関わることが多いんだろうと。


だからなお一層、自責の念が強くなる。



本当に悲しく、苦しかった。




でも結局、タイムマシンがあるわけでもないし、
我々は、前に進むしかない。

未来に向けてしか、時間は進まないのだ。



当たり前のことなんだけど、当たり前のこととして受け取れなかった。




じゃあ、なんで今は受け取れるのか?



いや、何も難しいことじゃなくて、もしも俺が死ぬ側だったらどうだろう?と考える。


もしも、俺が死ぬ側だったとしたら、
自分が死んだのは、どこまでいっても自分の責任で、
誰を責めたり恨んだりすることは無いだろうなーって思う。

意図的に殺されたんだったら話は別だけど。


ましてや、Kの時も、花一輪さんの時も、Y先輩の時も、
俺は死ぬ原因に直接関与していない。


なんか、半ば無理やり理由をこじつけて、
自分に責任があるように感じようとしていた節もある。

そういう自分に酔いたいというか。


「俺はこんなに悲しいんだぞ。」

と、いう気持ちを、無理やり、「もっとこうしていたら・・。」とかって、
「たられば」にこじつけていた。

その方が、なんかそれぞれ、死んでいった人たちに対して、
罪滅ぼしできるような気がするからだ。



だけど、俺が逆の立場だったら、そんなことは望まない。


「死因と直接関係の無いところで、
いつまでもグジグジ考えてるんじゃねーよ!バカ!」


って思うだろう。


自分が死んだせいで、
生きている人が歩みを止めないでほしいと思うだろう。



もちろん、悲しいものは悲しい。

それはそれで当たり前の感情だ。


だけど、この世に残された側の問題は、
あくまでも、どこまで行ってもこっち側の、さらに言えば自分の問題なのだ。

死んだ人にとっては、どうでもいいことというか、関係無いことなのだ。


大事なのは、その死から何を学び、何に生かすのか?


ということしか無いんだと思う。


だって、何回も書くけど、
生きている俺たちは、未来に向かってしか進めないんだから。




だから、去年の今頃に亡くなったあべさんも、
去年の暮れに亡くなった、もう1人のあべさんも、
2人とも大切な友達だったし、亡くなったのはすげぇ悲しいけど、
だけど、後ろ向きな「たられば」や、悲しみに暮れて歩みが止まるようなことはしたくない。


むしろ、亡くなった人たちに対して失礼だ。



生きてるんだから、生きていることに胸を張って、
感謝しながら精一杯生きる。



そして、亡くなった人たちに対しては、
どこまで行っても、「ありがとう」だ。


その死を以て、その死と向き合って受け入れることで、
自分は大きく成長できる。



北斗の拳で、ケンシロウも言っているじゃないか。

亡くなった人たちに対して、

「お前も俺の中に生きている。」と。



だから、あべはりさんだって、あべひげさんだって、
俺の中に生きてるんだよ。


未だに、悲しくて胸が張り裂けそうになることもあるけど、
でも、それはそれ。

それ以上でもそれ以下でもない。



ただ、「あべさんたちが、もうこの世にいない」ということだけが真実だ。


それにまつわる解釈や感情は、変えることができる。



どうせ変えられるんだったら、前向きに変えたいし、
俺が死んだときも、残された人たちにはそうしてほしいなーと思う。


あべさんが亡くなって、一年が経った。

もう充分悲しんだ。



もうそろそろ、それをバネにして、力に変えて、前に進みたい。



あべはりさんの一周忌に際し、感じたことを書いた。


あべさん、ありがとう。

 
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2010年06月18日

【回想録】ノーモラル。


昨日、モラル云々などと、なんか偉そーな記事を書いた。


じゃあ、俺が聖人君子のように生きてきたかと言えば、ノーだ。




今日は、
思い出しただけで恥ずかしさのあまり叫びたくなってしまう、俺の昔話を。


トラック野郎時代、俺の周りはワルばっかりだった。

ケンカは茶飯事、犯罪者多数、ヤクザや右翼、
過ちで人を殺めてしまった人も何人か。



で、俺もその中にドップリと浸かっていたわけだ。


一番笑ったのは、田舎道にポツンと置いてある銀行ATMを、
ユンボ(パワーショベル)とユニック車(クレーン付きのトラックね)で盗んだ野郎がいた。

もちろん、即御用になったわけだけども。(笑)



そんな世界にいるわけだから、モラルの「モ」の字も無い。


乗用車に乗っているときだって、灰皿がイッパイになれば、
信号待ちの時に、当たり前のように、ガバッと大量の吸い殻を道路に捨てる。


酔っぱらい運転で、中央分離帯に乗り上げてしまった友達を、
警察が来る前に急いで車ごとトラックで引っ張ってきたこともあった。


強引に割り込まれたことに腹を立て、車から降りていってぶん殴ったり、
鉄パイプでガラスを割ったり、やりたい放題。


まだまだ、とてもここに書けないようなこともたくさんしてきた。
幸い人殺しはしていない。



迷惑をかけた人たちには、今では申し訳なかったなーと思う。

だけど、謝れば済む問題でもないし、謝ったってどうしようもない。



それ以前に、俺はその時々、自己責任においてそれをやってきた。

良くも悪くも。


だから、申し訳ないとは思うけど、後悔はしていない。



タイムマシンに乗って過去に行けるんだったら、
やり直したり、諭したりすることだってできるかもしれない。

だけど、やっぱり過去には戻れないから、
今、俺は俺の責任のとり方で今を生きるしかないのだ。


そういう、モラルの無い自分で生きたことで失ったものもあり、
代償もたくさん払ってきたわけだし。



その当時の俺から、どういう過程を経て今に至ったのかは、
とても一言では語れないし、とても長い時間が必要だったし、
現在だって、決して終わったわけではなく、これからもずっと続いていくことだ。



ちょっと話は逸れるが、以前も記事にしたけど、
先日、こないだまで、仙台のメディアテークで開催されていた、
井上雄彦先生の最後のマンガ展に行ってきた。

それも2回も。


もう、会期が終わったので少しネタバレしてもいいかなーと思うんだけど、
宮本武蔵は、100人以上の人たちを斬り殺した。


だけど、マンガ展の中で、武蔵はたくさんの人を殺してきたわけだけど、
その何倍もの人々に、道を示したというようなくだりがある。


井上先生も、たくさんの人の命を奪った武蔵の人生に、
最後の最後で救いを持たせたかったというようなことが写真集に書かれていた。


なんか、それを読んで、俺自身が少し救われたような気がした。



話は戻って、
だからといって、俺は過去にやってきたことが許されるとも思っていないし、
正当化しようとも思わない。

他のことで善行を積んだとしても、罪が消えるわけでは決してないし、
プラスマイナスゼロになるとも思わない。

それはそれ。これはこれだ。



もし、俺が過去にぶん殴った相手が、また目の前に現れたとして、
それはそれとして、腹が立てばまたぶん殴るかもしれない。


そんなに俺は人間ができていない。



でも、自分が起こすことはすべて自己責任の上で受け止めることはできる。

良くも悪くも。




以前聞いた話で、「誠実さ」には7段階あるんだそうだ。

誠実さの最低レベルは、自分で悪いことをやっている自覚すらない状態。


途中の部分は忘れちゃったんだけど、
誠実さの最高レベルは、「自分は自分の言葉である」という状態。


つまり、自分の言葉は、すべて自分を表すということだ。

良くも悪くも。



もっと平たく言えば、究極の自己責任といったところだろうか。



自分がやると言ったことは必ずやる。
過ちを犯しても、自己責任の上で生きると宣言して受け止める。


自分は、自分の言葉のお化けである。

だって、自分の内側は自分しかわからないんだから、
自分以外の人との関わりはすべて、自分の言葉でしかない。


俺は、こんな感じで解釈している。


これを聞いたときは、鳥肌が立ったね。



なので、俺はこの記事を、懺悔のつもりで書いたわけじゃない。

許しを請おうとも思わない。



恨んでくれて結構。非難してくれて結構。


そして俺もガンジーのようになるつもりもさらさら無い。

戦うべきところは、喜んで戦う。


理不尽なことや、アタマに来たことには吠えるだろうし。




だけど俺は、それを決して何かや誰かのせいにするんじゃなく、
自己責任の上でやっていこうと思う。




こんな俺のBLOGですが、よかったらこれからもお付き合いください。


 
ラベル:モラル トラック
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2010年05月26日

【回想録】なまりと無線。


突然だが、俺の言葉はなまっている。

あんまり自分でなまっている自覚はないんだけど、
どうやらなまっているらしい。(笑)


仙台弁というか、東北特有のなまりだ。
「●●たべ。」とか、「んだっちゃー。」とか、「したっけ〈そうしたら〉さー。」とか。


最近は、俺に影響されてか、りえさんまで軽くなまり始めた。

大変だ。こりゃ。




さて、話はググーッとさかのぼって、
俺は高校生くらいまでは言葉はきれいだったと記憶している。


以前記事にしたけど、某宗教団体に所属していたころ、
よく、全国の集まりで、東京だの名古屋だの飛騨高山だの伊賀だの、いろいろ行った。


その時は、

「わこうくんって言葉使いがキレイねー。東京の人みたーい!」

と、よく言われていた。



しかし。


なぜ現在はこんなになまりがひどくなってしまったのか。



原因はわかっている。






無線だ。


無線が俺の人生を変えたのだ。



俺がまだ二十歳くらいのころ、パーソナル無線が大ブレイクして、
トラックみたいに本業で使う人たちではない、
普通のサラリーマンや学生までが、パーソナル無線をやっていた。

パーソナル無線は、アマチュア無線のような免許がいらずに、
誰でも気軽に使えるのが大流行の理由だ。


車に無線機を積んで、移動しながら無線をする「移動局」と、
家に無線機を置いて無線をする「固定局」など、いろーんな人たちが、
だいたい夜になると誰かが開局して、交信を始める。


俺もご多分に漏れず、先輩に安く譲ってもらった無線機を車に積んで、
電波のロケーションのいいところを探しては、交信に参加していた。



無線には、「無線用語」や、「ルール」があって、
モラルやマナーが問われる、ちょっと独特な世界がある。

初めて開局したときなんかは、先輩に紙に書いてもらった話し方の台詞を棒読みして、
ドキドキしながらマイクを握ったもんだった。


で、だんだんと慣れてきて、少しずつ仲間を増やしていった。



当時の仙台は、どこの無線クラブにも所属しない、
無線用語で言う「民間局」と言われるフリーの人たちがいっぱいいて、
誰からともなく開局し、多いときには10局ネットなんて時もあった。

昼間は無線クラブの人たちがチャンネルを使っているから、
夜になってチャンネルが空くのを待ってのネット。

で、他愛のない話を夜中まで何時間もするなんてことがほぼ日課のように。


みんな会ったことのない、無線だけの関係。

声から、どんな人なんだろうと想像するのもまた楽しいもんだった。


そのうち、仲のいい人たちが、「グランド(直接会うことの無線用語)しましょうか。」
となって、夜の仙台港や、広い駐車場があるところに集まってグランドする。

声しか聞いたことのない人と実際に会うと、
予想通りだったり大きく予想から反していたり、いろーんな人がいて、
ドキドキで、かつ、それが本当に楽しかった。


自販機で買った缶コーヒーなんかを飲みながら、駐車場で何時間も立ち話して。



ケータイも一部の人しか持っていない時代。

ネットで知り合った人たちがオフ会するのなんかとおんなじだ。
ただ、ツールが無線なだけで。


楽しかったねー。



さて、そんなこんなで、無線にすっかりハマッた俺は、
トラック仲間の誘いで、パーソナル無線では珍しい、全国クラブに誘われて入会した。


もともと民間局としてガツガツやってきたし、一応それなりにマナーも心得ている。


だから、クラブに所属しても、あっという間に管内(地元)の人たちに馴染んでいった。




ところが・・。

もちろん、俺みたいに関東便とか走っている人もいたけど、
管内のメンバーたちは、だいたいおっちゃんたち。


そして、ほとんどの人がなまってるんだよ。

仙台弁をはじめとした、俗に言う「ズーズー弁」っていうヤツだ。


で、やはり、無線で話すときは何と言っても楽しい方がいい。

特に当時の俺は、無線でおっちゃんたちを笑わせるのに命をかけていたから、(笑)
当然、俺もなまりを意図的に使うようになる。


結果、普段の生活もすっかりなまっている。


というスパイラルのできあがり。



いやー、落ちていくのはあっという間だったね。わははー。



高校生のとき、東京の人みたいなんて言われたことも、もう見る影もない。

特に、関東や関西の人たちには、東北弁ってウケるんだ−。これが。
だから、調子に乗ってまたなまりを駆使して話す。

そして、もう戻れないドロ沼に・・・。



いつしか、「仙台支部のハナちゃん(俺のニックネーム)はおもせー。」
となって、まだ当時26歳かそんくらいだったと思うんだけど、
諸先輩方を差し置いて、仙台支部長に大抜擢。


ますます無線のドロ沼に浸かっていったのだった・・。





あれから15年あまり。

もう、なまりはすっかり俺のネイティブな言語となった。


以前、四国の人と電話で話したときがあり、仕事の電話だったので、
俺的に標準語バリバリで話したつもりだったんだけども、
そのあと、相手の方から、


「わこうさんの、東北の方特有のイントネーションが
とても暖かく感じ・・。」



みたいな内容のメールが来た。


もうダメだこりゃ。



一時は、なまりを真剣に悩んだこともあったが、
今はもうすっかり開き直って、率先して使っている。



りえさんファンの皆さん、今以上にりえさんがなまったらごめんなさい。

 
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2010年05月22日

【回想録】七面山修行。


昨日、奈良の天河神社に行ってきたという記事を書いた。

その記事はこちら。


天河神社のある天川村は、まるで村全体が神社を守っているような、
共存しているような、そんな不思議な村だった。


そんな氣に触れて、思い出したことがある。


かれこれ10年以上前になるか。

山梨県にある霊山、七面山〈しちめんざん〉登山の修行に参加したことがある。



当時俺は、仕事とは別に、
とあるワークショップのアシスタントなどとして活動していたが、
自分の力不足を思い知らされ、打ちのめされるような出来事があり、
失意の中で生活していた。

加えて、当時はおふくろと一緒に花屋をやっていたんだけど、
考え方の違いから、おふくろとのケンカが絶えず、
とにかくおふくろとの関係をなんとか良くしたいと、真剣に悩んでいた。



そんな中、知人が日蓮宗の宗教団体に所属していて、
毎年、可能な限り七面山修行に参加していると聞いた。

別に俺は、日蓮宗の信者ではないんだけども、
その、七面山修行の話を聞いたとき、何か惹かれる不思議なものを感じて、
なんとかその七面山修行に交ぜてもらえないかと頼んでみた。


その知人が、上の方に掛け合ってくれて、
本当は、信者じゃないとその修行には参加できないんだけど、
前例の無いことだけどOKが出た。

日蓮宗は法華経なんだけども、
俺はお経も読んだこともなければ、日蓮聖人のことも何も知らない。


しかし、なぜOKが出たのか。



いやー、理由を聞いてブッたまげてしまった。


その団体の上の方のかたが、霊視というか力のある方で、
俺の前世を見てくださったそうなんだけども、
それによると、俺は過去世に修行僧の時があり、日蓮聖人に会っていたんだそうだ。

が、しかし、考え方の違いから、日蓮聖人の法華経ではなく、
他の道を選んだんだそうだ。


で、俺の過去世を見て、何百年と経った今、
俺が生まれ変わって、日蓮聖人の歩んだ道に触れるということには、
とても意義があるんだそうだ。

なので、異例の、信者じゃないのに修行に参加するというお許しが出たんだそうだ。


いやー、ホントかどうかはわからないんだけども、
なんだかスケールのでかい話で、自分の事なんだけども実感がない。

っつーか、過去世の話なんだから、実感が無くて当たり前なんだけども。


ということで、お経も読んだことのない俺が、
いきなり五泊六日〈だったかな〉の修行に参加することになったのだった。


とはいえ、実際に七面山登山をするのは最後の方で、
その前に数日、いろんなお寺を回って、それぞれに修行をして身を清める。

その上で、標高1900mの七面山登山をし、
山頂近くの、標高1700m付近にある敬慎院で一泊し、
次の日の夜明け前から展望台に出て読経をしながらご来光を仰ぐというもの。


正直、七面山登山前の数日間、どんなところへ行き、どんな修行をしたのか、
もう、10年以上前なので覚えていない。

ただ記憶にあるのは、ひたすらお経をあげて足が痺れて痛いのと、
ストイックな雰囲気になかなか馴染めないでいる自分との葛藤だった。



その時に一緒に修行に参加した人たちは80名くらいだったかなー。

イマイチ覚えてないんだけど、その中の数名とは、ちょっとだけ仲良くなって、
なんかいろいろ話した記憶がある。


だけど、俺の中では、心にブロックをかけていた。

「これ以上は俺の領域に踏み込むな。」と。



それが当時の俺の人との距離感とスタンスだった。



そんな中、いよいよ、七面山登山が始まった。

登山中、歩くリズムに合わせて、「南無妙法蓮華経」をひたすら唱える。
登山中ずーっとだ。


キツイかなーと思ったんだけど、案外唱えながら登るのは、
呼吸がいいリズムでできるので、苦しくなかった。


途中、下山する一行とすれ違い、

「ご来光見られましたか?」

と尋ねたら、

「いやー、イマイチでしたー。明日、ご来光見られるといいですねー。」

などとお声掛けいただいた。



七面山は霊山なので、どんなに体力があってもバテる人はバテるという。

実際、スタミナがありそうな人がゼイゼイ言ってる場面を何回も見た。


七面山登山でモノを言うのは、「霊力」なのだそうだ。


そういう意味で言ったら俺は霊力があったのか、
全く余裕で、ヒョイヒョイと登山できた。


そしてついに、敬慎院に到着。

食事をとり、読経や修行をし、就寝の時間に。


就寝は、敬慎院の名物とも言える、ダーッと横に長い布団に、みんな並んで寝る。
例えて言うなら、箱に入ったクレヨンのような感じ。


たしか、俺が登山したのは、暑い季節だったと記憶しているが、
たかだかここ数日前に初めて会った他人と、
暑い中、同じ布団に身体をくっつけて寝るのが、どうしても耐えられなかった。

1時間くらい、なんとか寝よう寝ようと頑張ったんだけど、
そう思えば思うほど気持ち悪さが気になって、目がどんどんさえていく。


ついに布団に入っていられなくなって、布団から出て、
ひとり、お寺の廊下でボーッと座っていた。


そうしたら、見回りの住職さんがいらっしゃって、

「どうしたんですか?眠れないんですか?」

と。


俺は正直に、

「他人と同じ布団で身体をくっつけて寝るのが、どうしても耐えられないんです。」

と答えた。



そしたら、

「それが今のあなたの、人との距離や関わり方を映していますね。
そのことから気づくことや学べることもあるんじゃないでしょうか。
この機会に、よく自分に問うてみたらいいですよ。」


と。



「・・・・。」

絶句した。



今、俺の目の前にある現実は、同じ布団に他人と一緒に寝られないこと。

だけど、そこに映し出されている自分は、
一見、人とオープンに話しているように見えるけれども、
実は、その奥底にガッチリとしたブロックがあって、
最後の最後で、人を信じていないという自分。


そして、そんな自分に嫌悪感を抱いている自分。


人を信じたい。だけど信じられない。

人は裏切るのだ。気持ちが変わるのだ。絶対なんてあり得ないのだ。


そして、それを恐れるあまり、傷つきたくないから最初から関わらない。
関わっても、最後の砦は残しておいて、その安全な範囲の中だけ。


そんな自分をまざまざと見せつけられ、
どうしていいのかわからず、寺の真っ暗な廊下でひとりで泣いた。


結局、最後まで俺はその布団に入ることができなかった。



明けて次の日。

夜明け前に起床し、全員で暗い山道を進み展望台へ。

そして、夜明けまでの数時間、ひたすらお経を唱え、日の出を待つ。



だんだんと日の出が近づき、空が明るくなってきたころ、
展望台の先に、富士山があることに気づいた。

標高1700m付近。
眼下には雲海が広がっている。


そしてついに、光が雲の地平線にバーッと横に走った次の瞬間、
素晴らしいご来光を拝むことができた。


素晴らしい太陽だった。


その後、雲海の下からの気流に乗って、
まるで雲海から龍が天に昇っていくように、いくつもフォーッと縦に雲が伸びていく。

この世のものとは思えない素晴らしい眺めで、
お経を唱えながら、みんな涙を流していた。


後で聞いた話だけども、その時のご来光は、
敬慎院に長年住んでいらっしゃる住職さんがかつて見た中でも、
3本の指に入るほどの素晴らしいご来光だったそうだ。

確かに、住職さんは写真をパチパチ撮っていた。


そんな感動の中、敬慎院での修行を終えて、無事に下山してきたのだった。


正直、その修行で、俺が誰にでも、
心を開いて接することができるようなところまでには至らなかった。


だけど、この修行のおかげで、
自分が人との間に無意識にバリアを張っているんだという事に気付き、
それが始まりで、長い年月をかけて、そのブロックを外していくに至ったわけだ。


俺が関わる人たちに対しても、おふくろに対しても。


だから、この修行に参加できたことは、本当にラッキーであり、感謝しかない。




日蓮聖人が歩んだ道を、俺が現世で歩くことで得た、大きな気付き。


10年以上経った今、こうしてBLOGに書けるということは、
俺の中でも整理がついて、もうすでに過去のことになったということだ。


俺を七面山に導いてくれた、Yさんに感謝。



そして、今こうして振り返ることが出来るということに感謝。




人生いつまでも精進精進。



※※※※※※※※※※

追記があります。ここをクリック。

 
ラベル:七面山 天河
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2010年04月09日

【回想録】BMW。

18歳で普通免許を取ってから現在まで、いろんな車に乗ってきたけど、
生意気にも外車歴の方が長い。


俺を外車好きのドロ沼に引きずり込んだ、罪作りな車。


それが、

14117_1024.jpg
この、BMW 528i(E12)だった。色もこの写真と同じ白。

写真はこのサイトから引用。


当時、本当は別な車を買おうと思って行った中古車屋さんに、
ちょうど下取られてきたばっかりのこのBMWがあった。


その当時ですでに10年落ち。

塗装がはげているところなんかもあって、けっこうボロかったけど、
そのノスタルジックなたたずまいに、一発でノックアウトされてしまった。



その時俺は、21歳くらいだったけど、人生初の左ハンドル、
そして、人生初の外車に、それはそれは胸が躍ったもんだった。


で、純正のアルミホイールを履いていたんだけど、
そのまんまだと、優等生っぽくてあんまり好きじゃなかったから、
スピードスターレーシング(SSR)でホイールを特注してもらって、
深リムでツライチ、そして、引っ張りタイヤでリムがむき出しで乗っていた。


深リム、ツライチ、引っ張りタイヤとは、
su_na6_2_004.jpg
こんな感じで、ホイールの内側が深く、ボディと車輪の面がほぼ一緒の状態、
そして、太いホイールに、わざと細いタイヤを引っ張って履かせることを言う。

上の参考写真は、こちらのサイトから引用させてもらいました。


これをすることで、車が一気にワルっぽくなる。


スカイラインやマークUとかで、深リムでツライチはいっぱいいたけど、
BMWでやっているヤツはほとんどいなかったね。


20年前の事だけど、我ながら先進的だったなーと思う。(笑)



いまどきの車は、4速オートマとか、5速オートマだけど、
この車は3速オートマ。


それなのに、最高速アタックをしたら、200km出た。

たった3速で200km。
BMWのテクノロジーってスゲーなーと思った。


しかも、BMWや他のヨーロッパ車全般に言えることだけど、
とにかく足回りがよくできている。


カーブを曲がるとき、「あ、ちょっとオーバースピードかな・・。」と思っても、
しなやかにクイッと曲がる。

このBMWで、クネクネしたワインディングを走るのは、
本当に楽しかったねー。




ある日、当時勤めていた会社で、宇都宮転勤を言い渡され、
このBMWを宇都宮に持っていって普段の足として使っていた。


ある日、ブレーキパッドが減ったので、交換してもらおうと思って、
現地の電話帳で調べて、「トーコーモータース」という、正規代理店を見つけた。

電話で問い合わせたときの応対も、とても感じがよかったので、
そのトーコーモータースにBMWを持っていった。


俺が乗っていたBMWには、整備手帳が積んであったけど、
まともに見たことなんて無かった。

が、トーコーモータースの人に整備手帳を見せたら、


「あれ?この車、ウチで売った車だ!」


と。


確かに、販売店のところに、「トーコーモータース宇都宮」って書いてある。


いやー、ビックリしたねー。



ぜんぜん知らないで、たまたま持っていったところが、
この車の販売店だったなんて。


宇都宮の人が買った車が、いろんな経緯を経て、
仙台の俺の元にやってきた。


そして、俺が知らないでその販売店に・・・。

なんたる偶然。


トーコーモータースの人と、
「このBMWが引き寄せたんだねー。」なんて話し合った。


そんな不思議なご縁。





話は変わって、その後転職し、トラックの運ちゃんになったわけだけど、
会社が仙台港にあったので、国道45号線を通勤でよく走っていた。


ある日、マフラーのタイコ(出口んとこの消音器)の根っこが錆びて腐って、
タイコの根本からマフラーが折れてしまった。

とりあえず応急で、マフラーが落ちないように針金で吊って乗っていたんだけど、
なにしろ消音器が無いもんだから、すごい爆音。


それに加えて、前述の通り、タイヤとホイールをツライチにしていたもんだから、
もうすっかりヤン車(ヤンキー車のことね)。

ホントは狙ってやったわけじゃないんだけど、結果的にそうなってしまった。



で、話は戻って、ある日いつものように、夜中に出勤しようと思って、
45号線を走っていたら、遙か前方に、赤い明かりがたくさん見えて、
ゆらゆらと左右に揺れている。

「なんだべ?」と思って近づいてみたら、暴走族だった。


45号線は、当時、よく暴走族が出た。



「うわー、めんどくせー。」と思ったんだけど、
とにかく急いでいたので、早くその集団の中を抜けようと思って、
暴走族の列に入っていった。



ところが。



暴走族のお兄ちゃん達が道を空けてくれないんだよ。


「なんだこの野郎・・。」


と、思って1台のバイクと併走したら、
そのお兄ちゃんが、ニコニコしながらこっち見て何回もお辞儀をしてる。

よく見ると、他のバイクのお兄ちゃん達も、俺のBMWを見て、
ニコニコ笑いながらペコペコお辞儀してる。


どうやら先輩かなんかと勘違いされたらしい・・。



「ち、違う!違うから!」


でも、すっかり信じ切ってるお兄ちゃん達は、ニコニコしながらどけてくんない。


あーあ・・。


確かに、引っ張りタイヤで爆音響かせてたら、
仲間と間違われるよな−。そりゃ。




そしたら、45号線沿いの高砂っていうところに、交番があるんだけど、
お巡りさん達が暴走族取り締まりのために何人も待機していた。

で、バシャバシャと写真を撮りまくってんのよ。


当然俺もバッチリ撮られたわけで。





「違う!違うから!」




違うんだってば。おまわりさん。


マフラーは不可抗力なんだよ・。

マフラーは不可抗力なんだってば。



そして、俺はコイツらとは無関係なんだってば・・・。



結局、俺にはお咎めは無かったけど、
なんだか気分悪かったなー。




しかし、今でもあのお兄ちゃん達のうれしそうな顔は忘れられない。

おかしかったなー。



そんなおかしいエピソードのあったBMWも、いろいろとガタが来て、
4年半目一杯乗って、乗りつぶした感じで廃車にした。

いい車だった。


このBMWがきっかけで、外車のおもしろさを知り、
現在のように、外車のドロ沼に入っていったわけだ。


そういう意味では、罪作りな車だなー。


また機会があったらBMWに乗りたい。



と、そんなことを思い出す今日このごろ。

14117_1024.jpg
 
ラベル:回想録 BMW
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2010年04月02日

【回想録】屈辱。

今回は、俺の人生で1、2位を争うほどの屈辱を受けたことを書いてみる。

ただ、本文に入る前に書いておくが、、
俺の中では、もうすでに終わっている事なので、恨みつらみを書き綴る内容ではないです。



このBLOGに、たくさん記事を書いてきたけど、
2004年の暮れに、交通事故に遭い、右膝を粉砕骨折して3か月入院。

地獄のような絶叫リハビリを経て、やっと膝が曲がるようになり現在に至る。

その辺の話は、カテゴリ「突然入院日記」をどうぞ。



話は、まだ入院したての、車椅子に乗っていたころまでさかのぼる。


当時俺は、仲間内で会社を立ち上げ、専務をしていた。


が、突然の入院で仕事はできないし、
だけども借りていたマンションの家賃やらなにやらは支払わなきゃいけない。

警察は、事故の過失は100対0で相手側にあると言うし、
損害賠償や、休業補償の話をしようと思って、相手側の保険会社の担当に電話した。


ところが、俺が会社役員だという理由で、
明確な休業補償額が出せないとかなんとか言って、のらりくらりと会話をかわされる。

ぜんぜんらちが明かないから
一度病院で話をしたいと、相手側の保険の担当者に病院に来てもらった。


が、話の本題は、俺の保証についてのはずだったのに、
保険屋が来て開口一発、


「わこうさんにも過失がありますよね。」


と言い始まった。


で、間髪入れずに、今までの事例がどうだこうだと、
事故の過失割合の話が始まった。


しかも、俺の事故を調べた警察は、
状況的に俺に過失は無いと言っているのにだ。

まぁ、警察が出す事故証明は、保険の過失割合には関係ないみたいなんだけども。


で、その保険屋が主張する、俺の過失の根拠を聞くと、
ホント、メチャクチャな根拠で、当然こっちが納得できるような内容ではない。


とにかく、一銭でも保険金を安く済ませたい意図がありありだった。



さらに、話の要所要所に、こっちが頭に来るような、挑発的な発言を織り交ぜる。


だもんだから、ついに俺も堪忍袋の緒が切れて、
目の前の机をドンと押してしまった。




これが悪夢の始まりだった・・・。



ドンと押した机が、反対側に座っている保険屋の腕にボンと当たった。

すると、その保険屋は、


「暴力をふるいましたね!警察に訴えます!」



と、鬼の首を取ったように病院を出て行った。


暴力も何も、俺はまだ車椅子の状態。

何ができるっつーのよ。


しかも、机が腕に当たったって言っても、軽くボンと当たっただけだ。

怪我なんてするわけがない。



しかし、感情的だったとはいえ、「意図的に暴力行為をした」ことは確かだ。


結局、信じがたいことに、その保険屋は、
そのまま病院に行って診断書を取り、今度は警察署に駆け込んだのだ。


その出来事の数日後、俺が入院している病棟に、
警察署から連絡があり、現場検証におまわりさんが来た。

で、病室で事情聴取された。



もう、病院は大騒ぎよ。


婦長さんからも、

「わこうさん!いったい何をしたんですか!」

と、怒られる始末。



一応、病院側には、事情を説明したら、納得してもらえた。

じゃないと、ヘタすれば強制退院だ。



結局、警察は、俺が退院してからじゃないと埒が明かないと、
俺が退院するまでいったん保留という形になった。


その後、俺の病室に、とある弁護士事務所から一通の文書が届いて、
中には、その保険屋が、暴力行為で俺に損害賠償請求をするという内容が書いてあった。



結局、俺の事故の件を、
この傷害事件を足がかりにして事を有利に運ぶ算段だ。




もう、その時点で怒り心頭よ。


そこまでやるか!と。








で、3か月の入院生活を終え、無事に退院したわけだけども、
早速、俺の暴力行為について、警察署から呼び出しがあった。


俺は、自己弁護のために、朝イチで出頭し、誠意を持ってそれに対応した。


「被疑者」と書いた紙を持たされ、状況を説明するために、
事件当時のことを、おまわりさんに説明し、その都度写真を撮られた。

朝イチの出頭で、途中休憩時間をもらったものの、
事情聴取に丸一日かかった。


でも、俺は自己弁護に繋がるものと信じて、最後まで積極的に協力した。




が、しかし、最後の最後に、担当の刑事さんから返ってきた言葉は、
俺の予想に反する意外なものだった。


「では、相手側の証言とほぼ内容が一致しますので、
このまま書類送検となり、傷害罪で前科一犯となります。」








うそ・・・。



この事情聴取は、俺の状況も聞いた上で公平に判断するためのものではなかった。


あくまでも、俺は訴えられた側であり、
内容はともあれ、診断書という証拠物件がある限り、ひっくり返すことはできないのだ。


最初から、俺は犯罪者という前提ですべて始まっていたのだ。



なんだよー・・。それ・・・。



捜査に協力的だったことや、きちんと出頭したこと、
俺がまだ退院したとはいえ、日常生活がままならない状況だったということで、
拘留はされなかった。


もし、出頭を蹴っ飛ばしていたらどうなっていたんだろうと思うとゾッとするね。




その後、すべての指の指紋を採られ、縦、横、斜めから写真を撮られ、
すっかり犯罪者扱いだ。


その間、写真を撮られるときも、何をされるときも、

「ほら!キビキビ歩け!」

みたいな、蔑むような応対。



もとはと言えば、ただ机が軽くボンと当たっただけじゃねーか・・。
怪我なんてするわけがない。


むしろ、その当時、まだ杖が無いと歩けない状況で、
事故に関しては、俺の方が被害者なのに・・・。



そんな理不尽で屈辱的な出来事に、すっかり精神をやられてしまった。


俺が鬱になって引きこもり始めたのはその頃からだ。





それから約一ヶ月後、今度は検察庁から呼び出しが来た。
今回の事件の詳細を、もっと詳しく聞きたいと。



そこで出会った、O検察官によって、この事件の流れは大きく変わることになる。


O検察官は、

「これはヨォ、本当は事件にもならない、ホントにくだらない案件だな。」

「しかし、相手の保険屋もきたねぇことするなぁ。節操ないな。まったくヨォ。」



ん?なんかこっち寄りな感じ?



「しかしヨォ、オメェも感情にまかせてそんなことすっから面倒くさい事になるんだぞ。」

「短気は損気って言うじゃねぇか。」




ごもっともです・・。


「ところで、オメェ、退院してから相手の保険屋に詫び入れに行ったか?」


「なんで俺が行かなきゃないんですか・・。」


「バカ、おめぇ、詫びに行ったっていう事実を作ることが大事なんだよ。
感情はいろいろあるかもしれねぇが、まずは詫びに行ってこい。」



と、宿題を出された。



そうは言ってもな−・・・。




理屈ではわかるんだけど、考えただけで憤死しそうになってしまう。


なんで俺が謝らなきゃないんだ・・。


という思いが、ずーっと頭の中をリピートする。



結局、O検察官から出された期限ギリギリの日、
菓子折を持って、アポ無し突撃で、相手の保険屋の職場に出向いた。

アポを取ろうと思えば、「弁護士を通じて」とか言って、
絶対に直接会おうとしないからだ。



結局、その保険屋と会うのは、その事件以来約半年ぶりぐらい。

怒りと、理不尽さと、ちょっとだけ恐怖と、いろーんな感情が入り乱れて、
相手の保険会社に乗り込むということは、敵地に単独で飛び込むということで、
ビルに入る前はさすがに心臓がバクバクして、ブルッと震えた。



で、その保険屋は、鳩が豆鉄砲を食ったように、俺の顔を見て、小さく、


「なんで来たんだよ・・。」


ってつぶやいた。



で、俺はとにかく、「暴力行為をしたことだけ」は事実だから、
そこについてだけ、誠心誠意謝った。


結局、持っていった菓子折は突き返され、


「受け入れることはできません。」


と、拒否された。




O検察官に報告すると、


「おー、行ってきたか。菓子折、突き返されたか。
オーケーオーケー、それでいいんだ。」



と。



「とにかく、詫びに行ったっいう事実を作ることが大事なんだから、
それでいいんだ。」




そして、


「次にな、診断書取るのだって金がかかるんだから、
書留で1万円入れて、詫び状を送れ。
たぶんそれも返されるだろうけどそれでいいんだ。」


「そこまでやったら、今回の件を不起訴にしてくれるように、
俺から相手を説得してみるわ。」


と。



その後、何回かO検察官から、相手の保険屋に対して、
何度か説得を試みてくれた。


最初はかたくなに説得を拒んでいたようだったが、
長い期間を要したが、最終的に、相手の保険屋は1万円で示談に応じることとなり、
俺の傷害事件も不起訴となった。



そこに至るまで、事件発生から実に2年。


いやー、長かった。

長い2年だった。



捨てる神あれば拾う神あり。

O検察官には、本当に感謝してもしきれない恩がある。

よくぞ、最後まで俺のことを公平に見てくれた。



世の中には、公平な立場でなければならないのに、
主観や感情が、あたかも正論になって、
総体的な視点から見る公平な判断ができない輩が実に多い。


そんな中、よくぞ俺を、主観や先入観で見ずにいてくれた。

本当にありがたい。





この件で、俺はたくさんのことを学んだ。



暴力は何も生まないことを学んだ。

生まれて初めての、憤死してしまいそうな屈辱も味わった。

でも、ちゃんと見てくれる人は見てくれてるんだということ。

そして、感情だけで相手を見るんじゃなくて、総体的な視野で見ていく大切さ。



その結果、4年前に、相手の保険屋を許すと決めた、
この記事への心境に繋がっていったのだ。



もう、相手の保険屋への恨みは無い。

そんな負のエネルギーから、いい加減解放されたかった。


このハラワタが煮えくりかえるような屈辱的な経験をしたから、
たいていの事は許せるようになった。


そういう意味では、この事にも感謝だ。



そして、やっと今、自分の中で咀嚼し終わって、
この事をBLOGに書くことができる。





それもまた、新しい俺の一歩なのかな。

 
ラベル:回想録 事故 保険
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2010年03月31日

【回想録】おかんキャラ秘話。

okan1_bigger.jpg

最近、まくろび庵のBLOGにも、Twitterのアイコンにも、
この、おかんキャラの写真を使っている。


この写真は、岩手のマクロビオティックレストラン、Sobe's Cafeで、
去年、ハロウィンパーティーに招待を受けたとき、
仮装必須だったので、この格好で参加させてもらったのがきっかけ。


実は、この仮装衣装を選んだのには、深ーい理由があるのだ。




まくろび庵オープンのずっと前にさかのぼって、6〜7年くらい前の話。


当時、俺は35歳。

そして、10歳年下の彼女がいた。


俺がモーレツアタックの末に、やっとの思いで彼女になってくれた人だったし、
年下だったこともあって、とにかく可愛かった。


可愛いから、何でもしてあげたい。

できる限り一緒にいる時間を作りたかった。


ちょっと家が遠かったから、会うときには、いつも送り迎えをしていた。



で、当時、俺は仙台の繁華街にとても近いところに住んでいたし、
その彼女が、飲み会や友人と街に出てきたときには、
帰りに家まで送ってあげたくて、酒を飲むのも我慢して家で待機。

終わった連絡があると駆けつけては、彼女を家まで送るという、
そんなことを続けていた。

でないと、オフィシャルに会う時間がなかなか作れなかったからだ。


俺は、それをしてあげることがうれしかったし、
きっと彼女もそうに違いないと思っていた。


ちょっと話は変わって、その彼女の動物占いは「オオカミ」。

オオカミだから、あんまり群れないし、1人の時間が必要だったり束縛を嫌う。


だから、彼女はよく、「自分で電車で帰るから大丈夫」と言っていた。


それでも、俺は会いたいから、
半ば無理やり彼女を迎えに行ったりしていたわけだ。


ある日、その彼女から、


「おかんみたいでうざい。」


と言われた。



まぁ、送り迎えの事だけでなく、その彼女のことを思いすぎるあまり、
けっこう細かいところまで干渉していたのも、そういわれた原因でもある。


しかしショックだった・・。



良かれと思ってやっていたことが、彼女にとって負担になっていたのだ。


たしかに、飲みに行ってても、自分のお迎えのために、
寝ないで待っている人がいると思えば、心底楽しめない。

今、こうやって、冷静に振り返ってみると、
いかに自分が身勝手だったというか、思いばっかりで行動していたのかがよくわかる。



自分がしてあげたいことと、相手がしてほしいことは、
必ずしも一致するわけではないのだ。



理屈ではわかってたんだけど、感情が入るとダメなもんだねー。こういうのって。


そうしてお互いに、

「なんでわかってくれないんだ?」

ってなって、どんどんすれ違っていく。


結局、その彼女とは半年くらいで別れてしまった。



今思うと、俺もガキだったなーって思う。

当時の彼女にも、申し訳なかったなーって思う。


もし、また会って話せる機会があったら、心から詫びたい気持ちだ。




で、話は1年半くらい前の、比較的最近のことにググーッと戻ってくる。


現在のパートナー、りえさんとお付き合いを始めたばっかりのころ、
りえさんの生年月日から、動物占いを見てみたら、「オオカミ」だった。


ケゲー・・またオオカミかー・・。



前の彼女から言われた、

「おかんみたいでうざい」


が、頭の中で何度もリピートする・・・。



りえさんも、あんまり干渉されるのを嫌うのかな・・。

送り迎えとか、あんまり強制しない方がいいよな・・。

思いだけで突っ走って暴走特急にならないように、
自分でブレーキをかけなきゃ・・。



などとそんなことを考えて、
りえさんとの関係は、本当に慎重に進めていったつもりだ。俺なりに。


あるとき、りえさんと動物占いの話になって、昔の彼女もオオカミだったこと、
「おかんみたいでうざい」と言われた話をし、
それが結構トラウマになっていることを打ち明けた。


それを聞いて、高らかに笑っていたりえさん。


いやー、打ち明けることができてよかったー・・。



で、りえさんを家に送った帰り道だったかな、
ケータイにりえさんからメールが届いて、


「私にはおかんが必要です。」


ってメッセージが。



いやー、やられちゃったねー。かわいいぞコノヤロー。



そして、俺も気兼ねなく、おかんキャラ全開で現在に至るわけだ。


と、まぁ、かなりのろけちゃったわけだけども。




okan1_bigger.jpg
そのことがずーっと俺の中にあって、
Sobe's Cafeで仮装をすることになったときに、
このおかんのヅラとかっぽう着を着ることにしたのだった。


これが、おかんキャラ誕生秘話。



昔の彼女との失敗で学んだ、俺の恋愛観と、相手との距離感。

それはもう、失敗じゃない。



やはり、人生には、なにひとつ無駄は無いのだ。



昔の彼女に、ありがとう。


そして、このことをBLOGに書くことを快諾してくれたりえさん、ありがとう。


スケールのでかい女だよ。まったく。



と、のろけで締めくくります。ありがとうございました。
 
ラベル:回想録 おかん
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2010年03月19日

【回想録】刺青と子供達。

今日書く話は、今まで、ごく一部の本当に親しい人にしか話さなかったこと。

このBLOGに、回想録を書くかどうするか迷っていたのは、
書くなら、この記事を避けるわけにはいかないから。


が、今、俺の中にいろんな心境の変化の波が起きていて、
そろそろ、いろんな意味で解放したい(されたい)思いが強く、
思いきって書くことにする。




俺には2人の子供がいる。
上は女の子、下は男の子。


子供たちは2人とも、俺にとても懐いていた。

俺も、子供たちを溺愛していた。



俺はトラックの運ちゃんとして働いていたわけだけど、
キツイ仕事をこなせたのは、子供たちがいたからだ。


やっぱり、守るべきものがあるっていうのは強みだね。


自分だけじゃないpowerが生まれる感じ。


が、トラック稼業も、繁忙期になると家にほとんど帰れない。

ピーク時は、1ヶ月の間に、家にいるのが2日とか。


それでも当時、子供たちは俺のことが大好きで、
俺が家に帰ると、ベッタリで離れようとしなかった。


という記憶だ・・。


特に、下の野郎ッ子は、夜遅くに子供たちを起こさないようにそーっと帰っても、
気配を察して起きてくる。

当時2歳。一番めんこい時だ。


で、俺と一緒に風呂に入りたくて、「アー、ウー」って言いながら、
自分で服を脱ごうとする。

すでに風呂に入ったにもかかわらずだ。


で、俺と一緒に風呂に入るとゴキゲン。




今思い出しても、胸がキューンとなるよ。

2人とも、本当にめんこかった。



その後、いろいろあって(その辺は書きたくない)
離婚する事になったわけだけども、
そんな子供たちと別れるのは、身を裂かれるような痛みと悲しみがあったね。


離婚が決まり、俺が家を出て行く日。

最後の思い出づくりにと、遊園地に行った。



当時の嫁さんと俺、そしてふたりの子供たち。

遊園地で思いっきり遊んだ。



そして最後の別れ際。



子供たちには、

「パパはお仕事で遠くに行くんだよ−。」

と言った。



そして、それまで自分が住んでいた家に、当時の嫁さんと子供たちを送り、
自分の家なのに、そこから別な場所に帰らなければならない違和感を感じながら、
子供たちに最後の別れを。

もちろん、子供たちはそんなこと知らない。




上の子が、

「パパー、お仕事頑張ってねー!いってらっしゃーい!」

と。


下の子も、「アーウー」言いながら手を振っている。



俺は、

「じゃーねー!行ってくるからね−。おりこうさんしてるんだぞー。」

って言うのが精一杯。



嫁さんに手をつながれたふたりの子供たちを、
ルームミラー越しに見たのが、最後の姿となった。


ルームミラーから子供たちの姿が消え、
ひとつ角を曲がったとたん、いろんな感情が溢れてきて、
車の中で独り、崩れ落ちるように嗚咽した。


あんな悲しみは、生涯で初めてだ。


12年前の話。




そして、俺は、離婚が決まったときに、刺青を入れようと思っていた。

ライオンの刺青。



子供たちは、ディズニーのライオンキングが好きで、
しょっちゅうビデオを見ていた。

で、なぜか、父ライオンが出てくると、俺の顔を見ては、

「パパ、パパだ!」

と、言っていた。



だからライオンの刺青。


刺青を彫る痛みを忘れないこと、
そして、服を脱いだとき、ライオンの刺青を見るたびに、子供のことを思い出すこと、
それを自分に科したのだった。


まぁ、今思えばなんて安易というか、短絡的なんだろうって思う。


だけど、その時は、それが自分にできる精一杯だったんだな。



ただ、今でこそタトゥースタジオとかたくさんあるけど、
12年前なんて、刺青彫ってくれるところを探すのだって大変。

しかも、業界が業界だしヤクザの友達とかたくさんいたけど、
俺が刺青を入れることは、絶対に言いたくなかった。

特に、親しい友達には。


だから、なんとしても自力で探すしかない。


で、結局、週刊誌の刺青特集なんかによく出ていた、
弘前の彫り師さんを見つけて、コンタクトを取った。


初代奥州彫和先生。


現在は、青森市内にスタジオを構えているようだけど、
当時は、弘前にアトリエ(?)があった。


で、アポイントを取り、雪の降る中、通行止め寸前の東北道を、
当時乗っていたアストロで、ケツを振りながらぶっ飛ばした。


彫和先生に、どんな図柄がいいと聞かれ、ライオンと答えると、

「ライオンかー、トラはあるけど彫ったことねぇなー。」

と。


で、2人で、タトゥー雑誌を見ながら、ライオンの図柄を探し、
だいたいのイメージがついて、いざ彫ってもらうことに。


布団に横になると、先生が、

「あのね、ウチの機械、自家製だから痛いからね。」

「スジ彫りだけは機械で彫るから。

と。



そして、俺の胸元に、人生で初めての針が入った。

頭の先からつま先まで、電気が走るような痛み。


2秒で後悔した。
いやー、自家製だからなのか何なのか、とにかく痛かったよ。マジで。


が、子供たちのことが脳裏をよぎり、とにかく耐えた。


5分もすると、あまりの痛さに、全身脂汗でびっちょり。



先生は、間髪入れずに、針を入れる。

ジジーッ・・ジジジーッと、独特な音が耳に入ってくる。


スジ彫りが終わったころには、もうグッタリよ。



しかし、それではまだ半分も終わっていない。


先生は、あまり痛くてひどいようだったら、
続きは日を改めてでもいいよと言ってくれたが、そのまま続けてもらった。


その後、手彫りでシュピッシュピッと、スジ彫りの中を塗りつぶしていく。

自家製マシンのスジ彫りの痛さに比べたら、手彫りは痛くなかった。


そんなこんなで2時間。


かくして、俺の胸元には、鋭い眼光で睨むライオンが彫られた。


掘り終わった安堵感と共に、俺は一生これを背負って生きるのだという切なさで、
グッとこみ上げてきた。



おふくろ、ごめん。




かくして、彫和先生に別れを告げて、雪の東北道を帰ってきた。

その日は夜から、会社を辞める仲間の送別会があり、
そのまんま飲みに出て、勢いでベロンベロンに酔っぱらった。



何やってんだろ・・。俺。





その後、刺青を入れて、親からもらった身体を傷つけたことで、
おふくろに対しての後ろめたさがあって、
おふくろにだけはどうしても黙っていられなくなった。

おふくろに刺青を入れたことを話すと、最初、ビックリした様子だったが、
事情を話すと、目に涙をためながら聞いてくれた。


本当に申し訳ない。




その、最初の刺青から12年。

その後、さらに2人の彫り師との出会いがあり、
ライオンに加えて、龍や蓮の花などなど、俺の刺青はどんどん広がり現在に至る。


その辺のことは、機会があったら追々書こうと思う。



今、刺青というか、タトゥーは、すっかりファッションとして認知された。

彫り師の数も、劇的に増えた。


そして、刺青やタトゥーが、だいぶオープンになった。



一見、おとなしそうな普通の女の子でも、ワンポイントが入っていたりして、
そういう意味ではいい時代になったなーと思う。



ある意味、子供と別れた悲しみを背負うなどと言って、
気負って刺青を入れた自分が、バカバカしく思えたりもするし、
そんな理由が無くても、もしかすると、ファッション的に刺青を入れたかもしれない。



刺青やタトゥーを入れる理由なんて、100人いたら100通り。


でも、それでいいと思う。


暗くて重い理由や決意が無いと、刺青を入れられない時代は終わって、
オープンなファッションとしてタトゥーを楽しむ。


それでいい。



だけど、俺の中にある真実は、
服を脱ぎ、刺青があることを自覚することで、2人の子供たちを思い出すということ。


俺の真実はそれでいい。



そして、俺のその真実は、生涯続いていくのだ。


 
ラベル:回想録 刺青
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2010年03月09日

【回想録】順応とシフト。

このBLOGに何回も書いているが、俺は昔、トラックの運転手だった。


トラック時代のエピソードは、カテゴリ「嗚呼トラック野郎」でどうぞ。



23の時に結婚し、
それを機に、大型免許を取ってサラリーマンから転身したのだ。

時代は、まだバブルの名残があったから、仕事はたくさんあって、
トラック未経験でも雇用してくれる会社が多かった。


それまで、4トン車だって運転したことがなかったのに、
佐川急便の路線便で主に名古屋まで走る長距離で、
いきなり10トン車に乗ることになったのがはじまり。


それまで、サラリーマンのぬるーい世界から一転、
男臭く、荒い環境に飛び込んでしまったわけだ。


最初に入った、佐川の路線便の会社は、今思えばとても条件が良かったんだけど、
当時、新婚だったこともあり、長距離で家を空けっぱなしが辛かったんだよね。


なので、10トン車で長距離を走るよりも、
さらに大きいトレーラーで中距離(関東圏)を走った方が、
給料は同じくらいでも、家に帰る機会も増えるんじゃないかと考えた。

そこで、かなりきつかったんだけど、
長距離で仙台に帰ってきた合間の時間で自動車学校に通い、
けん引免許を取った。


そして、仲の良かった無線仲間の口利きで、
仙台港界隈では仕事がきつくて有名な会社に、
求人なんかしていないのに、半ば無理やり雇用してもらった。


これが地獄の始まりとなったのだった・・。



その会社は、給料は良いけど、仕事はかなりキツイ事で有名で、
新人が入っては、続かなくてすぐ辞めてしまう。

そんな中、俺は久々のルーキーだったわけだ。


入社して間もないころ、ある先輩から、

「新人は、最初、根性試しをされるから覚悟しろよ−。」

って言われた。


そして、その助言通り、入社してすぐ、とにかく配車係の根性試しが始まった。


あたりまえのように、関東便の折り返し。

月曜→仙台〜宇都宮

火曜→仙台〜那須

水曜→仙台〜千葉

木曜→宮城県内便3本

金曜→仙台〜東京

土曜→東京〜八戸


みたいな、

「俺はいったい、いつ寝ればいいんだ?」

っていう、とんでもない配車。


今では考えられないね。こんなの。


長距離の時より家に帰る機会が増えると、希望に満ちて就職したわけだけど、
その希望は粉々に砕け散った。




しかも、トレーラーだし、北海道の荷物を扱う会社だったから、
パレット積みとかなくて、ほとんどが手積み手降ろし。


さらに当時は、今ほど過積載にそんなに厳しくなかったから、
30トンだの40トンだのあたりまえ。

米だの肥料だの野菜だのジュースだの冷凍食品だの、
全部手積み手降ろし。

なんで北海道便なのに関東圏に走るのかは、この記事をどうぞ。



いやー、眠い目をこすりこすり走って、
着いたら終わりじゃなくて、そこから何十トンもの荷物の積み卸しをしなきゃないのだ。


そりゃあ、新人が入ってもすぐ辞めていくわなー。


俺の後にも、何人か新人が入ってきたが、
パンチパーマでガタイが良くて気合いが入ってそうなヤツも、
1日も持たずに辞めていくなんて、ザラにあった。



そして、そのキツイ配車に加え、先輩たちのイビリ。


それまで、佐川の路線便だったから、箱車しか乗ったことがない。

だから、平ボディでロープ掛けとか、シート掛けとか、全くやったことがない。


そんなもんだから、とにかく何をやっても遅い。
いつも先輩に怒鳴られていた。


「まったく使えねぇヤツだ・・。」と、面と向かって言われたこともあった。



それなのに、当時の俺は、いっちょまえにヒゲを生やし、
茶髪や金髪にブリーチし、ヤクザメガネをかける、そんな成りだったから、
生意気に映ったんだろうな。


だから、荷主の場所を先輩に尋ねても、知ってるくせに教えてくれなかったり、
「どうせ辞めるんだろ?」みたいに嘲笑されたり、
いい年したオッサンたちがチクリチクリと責めてくる。


当時の俺の職場には、元ヤクザや現役ヤクザ、
元犯罪者や、多額の借金を背負った人、人を殺してしまった人などなど、
まーずバラエティに富んだ人たちの宝庫。

しかし、そのキツイ仕事を何年、何十年とやっている、
要は、「生き残った」人たちで、一言で言えば「猛者」だ。

ある意味、クレイジーな人たちだ。

みんな丸太のような腕をしてたし、ケンカしてもかなわないだろうな-と。




正直、面食らった。

こんな世界があり、こんなクレイジーな人たちがいるのかと。



悔しくて、すべてにおいて敗北した気分。

毎日が灰色。




その会社に入ったことを何回も後悔した。


だけど、友達に口利きしてもらった手前、辞めるに辞められない。

友達の顔にドロを塗りたくなかった。



ある先輩に、仕事を覚えるまでどのくらいかかったか聞いたら、
「2年かかった。」という答えが返ってきた。


「2年かー・・。長げーな・・。」


とは思ったが、

「よーし!とにかく仕事をガシガシやって、早く仕事を覚えて、
2年経ったら、こんな会社辞めてやる!」


というのを目標に、とにかく仕事をした。


配車係から、メチャクチャな配車をつけられても、
絶対に「できない」とか「不満」は言わず、淡々と仕事をした。

シート掛けやロープ掛けは、スピードよりも、安全性や丁寧さを重視して、
とにかく時間がかかってもいいから丁寧にやろうと決めた。


一ヶ月、また一ヶ月と経つたびに、

「今月もやれた。」「今月も大丈夫だった。」と、経験が積み重ねられると同時に、
それが自分への自信に変わっていった。


先輩と現場で一緒になっても、怒鳴られたりすることが無くなっていった。



そんなこんなで3か月、半年と過ぎるうちに、

「おー、わこう、明日はどこや?」

「いやー、しかしオメー、よく走るよな-。」

「いつまで配車係の根性試しが続くんだかな!ガハハ-!」


と、先輩たちから声をかけられるようになった。



いやー、なんか、はじめて自分の存在が認められた感じがしてうれしかったねー。
入社したてのころチクチクいじめられた事なんて、もうどうでも良かった。


そんなこんなのうちに、入社から10ヶ月目。

やっと俺の後に、ガッツのある新人が入ってきて、根性試しはその新人に向けられ、
ちょっとだけ仕事がラクになったのだった。


後輩ができると、俺も負けてらんねぇって思って、ますます仕事を頑張る。




そして入社から2年。



会社からも先輩からも認められるようになり、
その後の新人指導なんかを任されるようになった。

2年経ったら辞めてやるって思っていた会社だったが、
気がつけば、とても居心地がいい場所に変わっていた。

人間関係も円滑。


その会社では、人間性ももちろん見られるけど、
それよりも、仕事ができるかどうかが価値基準だった。


そういう意味で、俺は生き残ったわけだ。


先輩たちの腕を見ては、いつも「丸太みたいだなー。」って思っていたけど、
いつしか、俺の腕も丸太になっていた。

Tシャツの袖がパッツンパッツンになってたし。



最初は、人生で最悪の会社に就職してしまったと思ったわけだけど、
結局、5年勤め、最高に楽しんだ。


その後、おふくろから花屋を始めると突然の連絡があり、
それを手伝うために、トラックを引退することになったわけだ。

花屋への転身の話は、この記事をどうぞ。



結局、その会社での5年間を振り返ってみてつくづく思うのは、
人は、どんな環境にでも順応する力が備わってるんだな-っていうことだ。


入社当初、人生灰色、もう地獄以外の何物でもなかった会社が、
退社の頃は、離れがたく、とても大切なものになっていた。


もちろん、積み上げていったものもあったわけだけど、
それよりも、俺の中の意識が変わったから、俺から映る世界が変わったんだと思う。

基本的に、会社も人も変わっていない。


変わったのは俺だ。

俺の捉え方だ。



だから、否定的だったものが、180度ひっくり返って大切なものにシフトする。

答えは自分の中にある。



そして、多少時間がかかっても、必ず人間は環境に順応していく。


だから、出口が見えないようでも、必ず出口がある。


宇宙の法則の中にも、

「始まりがあれば終わりがある」

というものがあるけど、聞けばあたりまえに聞こえるけど、
これはとても深いな-と思う。


もちろん、ポジティブな終わり方もあれば、ネガティブな終わり方もある。


だけど、どうせだったらいい結果を作りたいよね。誰だって。

だから、一日も早く意識をシフトして、順応していけばいいのだ。


だって、誰も何も変えてくれない。

自分に映る世界は、自分で変えていくしかないのだ。


社会がどうだだの、あの人がどうだ、会社がどうだという前に、
自分がシフトした方が早い。


そして、さっさと順応してしまえば、したもの勝ちだ。



と、そんなことをトラックの運転手を通じて学んだのだった。



wako92.jpg
現役のころの俺。


 
ラベル:回想録 トラック
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2010年03月07日

【回想録】イジメ。


先日、回想録を書き始めて、俺が中学校時代にイジメにあっていたことに触れた。

今日はその話を書こうと思う。



今、このBLOGを見ていただくとおわかりの通り、
俺は昔から、メカものだのそういった類のものが大好き。

それは、子供時代からだ。


子供時代は、そのツールが「おもちゃ」になるわけだ。


とにかくおもちゃが好きで、電子機器やプラモ、モデルガンなど、
買ってもらったり自分で買ったりした物がたくさんあった。


中学校一年生のころ、
よく、学校におもちゃや自分が作ったプラモなんかを持っていって遊んでいた。


最初は、俺だけじゃなくて、当時一緒に遊んでいた友達も、
家からおもちゃを持ってきては、学校でよく遊んでいた。


が、今思えば、俺たちがそうやっておもちゃで遊んでいた裏で、
そのおもちゃが欲しくても手に入れられなかった人たちからすれば、
俺は疎ましい存在だったんだと思う。


それに加え、当時の同じ学年で、
後に学校を代表する不良グループ(←表現が古い)と、仲が悪かった。


もう、イジメの理由としては充分だな。今思えば。



そんなこんなで、中学校一年の三学期あたりから、
最初、クラスのヤツらから無視されることから始まって、
少しずつイジメがエスカレートしていった。

なんつったって、首謀者たちが、学年で一番の不良なわけだから、
影響力が大きいわけよ。


だから、その不良グループにへつらっているヤツらが、
まず最初にイジメに荷担してきた。

俺がよくおもちゃを学校に持っていって遊んでいたもんだから、
「おもちゃキング」、略して「オモキン」とあだ名をつけられ、バカにされた。


休み時間になると、いろんな物が飛んできたり、水鉄砲で水をかけられたり、

「おもちゃなんか持ってきてんじゃね−よ、バーカ!」

なんて罵声を浴びたり、後ろから叩かれたり。


まーずやりたい放題。


こういう時の集団心理っていうのはおっかないね。



で、だんだん、俺と一緒に遊んでいた友達まで、
イジメ側に荷担してヘラヘラ笑っていた。


初めて、「裏切り」とか「寝返り」っていうのを体験した。

いやー、ショックだったね。



で、だんだんとそれはエスカレートし、担任の先生にまで矛先が。

結局、授業にならないほど暴走。


担任の先生は、ショックのあまり入院してしまった。



俺の中学校では、こんな大規模なイジメや暴走は初めてだったみたいで、
とにかく、学年全体を巻き込む大きな騒ぎとなっていった。


「オモキンなんて死んでしまえばいい。自殺しろ!」

「わこうたかひろを呪い殺す会を作ろう。」

銀縁めがねをかけた、ガリ勉タイプのヤツらまで、
調子に乗りやがってそんなことを大声で叫んでいた。



渦中の俺は、当然、学校に行くのがイヤでイヤで、
学校に行くことを考えただけで腹がキューッと痛くなったもんだった。

両親にも相談したが、具体的な解決策は無く。


とにかく、

「休めば休むほど、学校に行きづらくなるし、相手が図に乗るぞ。」

というのが精一杯。


両親も辛かったと思う。




結局、3日だけ学校を休んだが、あとは休まずにひたすら学校に行った。


とにかく耐えた。


いやー、しんどかったー。
授業の終わりのチャイムがどれだけ待ち遠しかったか。



そして春休み。

学年が上がることに伴い、クラス替えがあったわけだけど、
学年の先生方が、たぶん、考えに考えたであろうクラス編成が発表された。

イジメの首謀者である不良グループや、
それに影響されている主要メンバーは、見事なほどバラバラに配置された。

今思い出しても、あの采配はすごいな−と思う。


こう・・物理的に分散させることで、沈静化を図る意図がビシビシと感じられた。


当時の俺の学年は8クラスあったから、本当にバラバラよ。



そして、二年生に上がり、多少、尾を引いた部分もあるにはあったけど、
一時の暴走のような状態は嘘のように消え、
先生方の思惑通り、イジメは自然消滅していった。


まぁ、結局、クラス替えがあって、みんなそれぞれ新しい環境になって、
俺をイジメることよりも、新しい環境に馴染むことの方が重要だったんだと思う。


こうして、イジメは物理的には沈静化したわけだけど、
俺の中には大きな傷がまだ残っていた。


・友人に裏切られたショックにより、また裏切られるんじゃないかという疑心。

・俺のことを陰であざ笑ってるんじゃないかという被害妄想。

・上記2つの理由から来る人間不信。



街を歩いていて、知らない人とすれ違うとき、チラッと俺の方を見たり、
話しながら歩いてきた二人組が、笑っているのを見ただけで、
「俺の何かがおかしいんじゃないか?」と、
ヘアスタイルや服装をチェックしたり、ニオイを嗅いだりして、
とにかく落ち着かなかった。

と同時に、自分への自信が無くなっていった。


この被害妄想は、2〜3年続いたが、
ある日、意を決して、友達にそのことを打ち明けてみたら、
俺が思っていた以上に、周りは俺に、いい意味で無関心だったことがわかって、
すごーくホッとしたことを覚えている。

「なーんだ。俺が思うほど周りは俺を見ていないんだ。」

と。いい意味でね。



中学二年に上がって程なく、
高校を卒業した先輩から、ボンタンを1本もらった。


ボンタンをはくことに憧れていたし、うれしかったんだけど、
初めて学校にはいていく前の日は、緊張のあまりよく眠れなかった。


またいろいろ言われたり、イジメが再発したりするんじゃないかという不安で。


で、ドキドキで学校にはいていったわけだけど、
確かに、イジメの首謀者グループだったヤツの一人が、

「あー!オモキンがボンタンはいてるー!」

とは言ったものの、それ以上は特に何も無く。


けっこう、みんな俺に良い意味で無関心だった。



それに輪をかけて、俺は中学一年の時から応援団に入っていたわけだけど、
とにかく応援団が好きだった。

二年に上がったとき、応援団ってとかく目立つし、
イジメにあっていたくせに、応援団なんかやったら、
また目立ってしまうからおっかないっていう感情はあったんだけど、
とにかく応援団が好きだったから、そのまま続けた。

そんな思いを知ってか知らずか、先輩から副団長に任命され、
より一層目立つ場所に出ざるを得なくなった。


もうそうなったら腹くくるしかないよ。


半ば、ヤリでも鉄砲でも持ってこいって心境で、副団長に挑んだ。


ある日、同じクラスのヤツから、

「おまえ、一年の時にあれだけひどいイジメにあったのに、
よく副団長なんてやれるよなー。」

と、言われた。肯定的なニュアンスで。


うれしかったねー。

ちゃんと、見てくれている人は見てくれているんだなー。


それだけで、なんか救われた感じがした。



そして、余談だが、三年に上がり、晴れて応援団長となり、
中学、高校と、応援団長2連覇を達成したわけだ。




高校のころ、よく周りから、

「わこうは動じないヤツだ。」

と言われていた。



それは、やはり、あの怒濤のようなイジメを耐え抜いて、
自力で乗り越えた経験があっての事に他ならない。


振り返れば、あのイジメだって、俺にとっての最高の心の砥石だったわけで、
多感な時期に、あんな貴重な体験ができて良かったな−って思う。

当時は、ホント大変だったけどねー。



俺の人生の中で、このイジメの体験は、

「あの体験に比べれは」

っていう、ネガティブを測るものさしのひとつであり、
大抵のことは、このものさしで測ればクリアできる。


まぁ、他にも、ものさしはいっぱいあるんだけども。



そういう意味では、この出来事に、本当に感謝している。


もし、当時のイジメの首謀者たちが、
知らないで俺の店にコーヒーを飲みに来たとしても、
俺は普通にコーヒーを淹れるだろう。

別に恨んでないし。


そう考えると、この世に起こる出来事には、
なにひとつ無駄は無いんだなーって思う。



感謝だね−。感謝。



ドM?

 
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2010年03月05日

【回想録】信仰。


以前から、俺が体験してきたいろんな出来事を、
何らかの形で書こうとは思っていたんだけど、
なかなかそのとっかかりができなかったのと、
書くことによって傷ついたりする人がいたらイヤだな−と思って躊躇していた。


が、誰も傷つけないように書くことを前提に、
俺の経験を公開することで、逆に誰かを元気づけられるかもしれないと思って、
思い切って書くことにした。

決心するまでひと月かかったよ。


新しく、カテゴリ「回想録」を作ったので、ここに公開していくことにする。




俺は、中学校一年生の時、自分の意志で、ある宗教に入信して、
約10年間活動した。


中1のころ、学校でイジメにあい、
学年全体を巻き込む大きなものに発展していったのがきっかけ。

当時、ウチに家庭教師で来てくれていた人が、その団体の信者で、
イジメで悩んでいた俺を、道場に連れて行ってくれた。


もともと、オカルトに興味はあったんだけど、
その道場で見たものは、かなり霊媒チックな光景で、
かなりショッキングだったことを覚えている。

もちろん、イジメの苦しみから解放されたいという思いもあったけど、
むしろ、オカルト的な要素が、当時中学生だった俺には充分入信の動機になった。


入信後、とにかくあしげく道場に通った。


イジメについてはまたそのうち別記事に書くけど、
結局、イジメは約3ヶ月で沈静化し、もう問題ではなくなっていて、
その分、「信仰」「神の存在」「宇宙の法則」など、そっちの方が重要になって、
とにかく宗教にのめり込んでいった。

大人に交ざって、いろんな勉強会や修練会に参加して、
当時の俺にしては一生懸命だったなー。


今でもそうだけど、何かネガティブな出来事があったとき、

「この出来事は俺の人生にとって必要な出来事で、心の砥石なのだ。」

という考え方は、すでに中学生の時に出来上がっていた。



難しい言葉も多く、チンプンカンプンなことも多かったんだけど、
「神の仕組み」、「宇宙の摂理」というのは、なんとなくわかった。

自分は生かされているんだと。


高校生の時には、団体青年部の高校生部門でリーダー的なことをやっていたし、
全国選抜修練会みたいなのに選ばれて、道場代表で行ったこともあった。


夏は夏で、炎天下の下で、冬は冬で雪の降る中で、修行をしたもんだった。

特に、東北方面の修練会は、全国的にもハードなことで有名で、
「もう二度と行きたくねー。」といつも思うんだけど、結局行ってしまう。



一方で、頭はリーゼントで、短ランにボンタン、応援団だったし、
そういう意味では派手な学生生活だったのに、
学校が終わると、やっぱり毎日のように道場に通って修行や奉仕活動。

ケンカはするけど、お年寄りには優しいみたいな。(笑)


そんな極端な二面性は、その頃からすでにあったんだな。



今、こんななりで、
「マクロビオティックでーす!」なんて言ってるのと何ら変わらない。(笑)



今振り返って思うのは、とにかく「宇宙の絶対意志」の存在と、
「宇宙には法則がある」ということに尽きる。

それが、平たく言えば「神」ということになるんだな−と。



入信から約10年後、俺は、道場の人間関係の中で、
ある人をとても傷つけてしまった。

今でも、その人のことを思うと、申し訳なさで胸がキューッとなる。



それがきっかけで、手放さなくてはならないものも多く、
道場に通うのが怖くなってしまった。

そして、俺のその出来事が道場内の多くの人に、
ゴシップとなって流れていることを知った。


ショックだった−。



かつて、俺も熱心に道場通いをしていたころ、
何か人の噂を聞けば、俺もそれに賛同してゴシップしていたこともあり、
今度は俺がその対象となったわけだ。


因果応報っていうヤツだな。



その後、道場仲間が心配して声をかけてくれたりもしたが、
俺はそのまま団体を辞め、一人で信仰していくことに決めたのだった。


まぁ、逃げたんだな。結局。



あれからもう、約20年経った。

が、俺の中にはずーっと信仰がある。



道場を離れてからも、いろんなひとを傷つけ、失敗もしてきた。

そのたんびに頭をよぎるのは、「宇宙の摂理」だ。


本当は、道場通いをしていれば、
もっと早く、失敗も少なく、そつなくやれたのかもしれない。


だけど、自分で失敗してみないと身にならないタチだから、
長く遠回りしたけど、結局また「宇宙の摂理」に戻ってくる。


よく、「神は自分の内に在る」というけれど、
それはホントで、どこまで行っても「神と自分」しかないのだ。



だから、逆に言えば、俺にとって団体はもう必要ない。

信仰仲間も必要ない。


どこまで行っても、「神」と「自分」しか無いのだから。



そして、俺がそんな境地に達したころに出会った、マクロビオティック。


マクロビオティックを、食事法や料理法だと、
本気で思っている人がいるみたいだけど、それはあくまでもひとつの形でしかない。

マクロビオティックは、やはり「宇宙の摂理」なのだ。

それを表現するために「陰陽」を使う。


ただそれだけのことだ。



いっぱい回り道をしてたどり着いた、ひとつの答え。



80歳まで生きるとして、やっと人生の半分を過ぎたあたり。

まだまだ人としての修行は続いていくし、
これからも誰かを傷つけたり、自分も傷ついたりしていくんだと思う。

その繰り返しが人生だ。


だけど、その繰り返しの質を上げていくことに、
人としての価値があるように思える。


人を傷つけたとき、自分が傷ついたとき、どう立ち回ればいいのか。


結局、「宇宙の摂理」にそって、答えを導き出していくしかないんだな。


と、思う。



それが俺が考える信仰だ。

依存じゃなくてね。



日々精進ッス。

 
ラベル:回想録
posted by わこう at 04:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 回想録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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