考えさせられる事が続いて、なんかうまく表現できるかわかんないんだけども、
とりあえず書いてみることにする。
俺にとっての義理の父とは、おふくろの再婚相手。
最後まで大好きな酒を飲んで、いつものように寝て、
そのまま寝ている間に逝ったそうだ。
透析とかするようになったりすんのかなーと、ネガティブな想像をしていたんだけども、
結局そんなこともなく、静かに逝った。
いろんな思いといろんな事情があって、葬儀には行かなかったんだけども、
来月か再来月には、お線香をあげに仙台に帰ることにした。

ポケット般若心経をしのばせて登り、
義父のことを思いながら般若心経を唱えた。
なんか高いところからお経を唱えたら届くような気がしたんだよな。なんとなく。
俺がその時にできる最善を尽くしたつもりだ。
りえさんのマブダチであるケイちゃんの地元、豊岡に遊びに行った。

つい面白くなって、プカプカ浮いて漂ったり、魚をみつけて追っかけたり、
夢中になって泳いだら、なんかもうクタクタになってしまった。
さらにけっこう深い所に行っちゃって足が付かない。
けっこう体力を消耗してしまってイマイチ身体に力が入らない!
パニックになりそうなのを抑えて、「冷静に、冷静に、冷静に・・」と、
何度もシュノーケルくわえたままつぶやいて呼吸を整えた。
ゆーっくりと平泳ぎして行ったら、岩場が見えてきた。
しばらく休憩して、無事に浜に戻った。
あの海の底を見た時の恐怖とか思い出すと、軽く心臓ハカハカになるよ。
初歩の初歩でつまづいちゃったわけです。

こう・・俺の視点から見たとき、ふくちゃんも義父も、
俺の人生の一部でで関わって、そして通り過ぎていった。
みんなみーんなそうだ。
お互いにお互いの人生の一部に関わって、通り過ぎる。
悲しかったり寂しかったりするよ。
事実はそれだけだ。
あまり過剰に意味づけしてもそれはそれでどうなんだろうなーと。
途中、志半ばで野垂れ死にすることだってざらだっただろうし。
不治の病にかかって、未来の医療の発達を信じて冷凍保存される、
みたいな、そんな話があったと思うけど、今やそれも現実となった。
だけどそれは過剰すぎないかなーと。
ふくちゃんが死んだとき、遺骨を海に流したわけだけども、
なんかうまく言えないんだけど、
なんかうまく言えないんだけど、
基本そんなシンプルな感じでいいんじゃないかと。
俺は以前、俺が死んだ時にはたくさんの人が俺の死を悲しんで、
たくさんの人が葬儀に来てくれる、
そんな人生を歩みたい、そんな自分でありたい、と思ってたんだけども、
ふくちゃんが死んだ時のあまりのあっけなさに、
なーんだ、こんな感じでいいんだっちゃ、って思ったんだよ。
先にも書いたとおり、俺はただ、いろんな人の人生の一部に触れるだけ。
そして通りすぎる、ただそれだけ。
それ以上の意味付けは必要ないというか・・
なんかうまく言えないんだけども。
たとえ世界中のどこで死んでも、あぁ、そういえばそんな奴いたっけなと、
たまに思い出してくれればそれでいいっていうか。
だからもう、たくさんの人が葬儀に来て云々なんて、もうどうでもよくなった。
今は・・そうだなー、せめて俺が死んだら、
一番身近にいるりえさんと、一部の親しい数人が泣いてくれたらそれで充分。
結局何を書きたいかボヤボヤーンとして、イマイチ伝わらないと思うんだけども、
自分が溺れ死にかけたり、ふくちゃんや義父が死んだりしたことで、
俺の中の命とか、死に様とか、そのへんの価値観がシフトした。
それを書きたかったんだよ。

これは、お盆中に、日本夕日百選のひとつ、夕日が浦で撮った夕日。
爽やかに、風のように通り過ぎる、そんな人生にしたいな。
たくさんの人が葬儀に来てくれる、
そんな人生を歩みたい、そんな自分でありたい、と思ってたんだけども、
ふくちゃんが死んだ時のあまりのあっけなさに、
なーんだ、こんな感じでいいんだっちゃ、って思ったんだよ。
たまに思い出してくれればそれでいいっていうか。
一番身近にいるりえさんと、一部の親しい数人が泣いてくれたらそれで充分。
自分が溺れ死にかけたり、ふくちゃんや義父が死んだりしたことで、
俺の中の命とか、死に様とか、そのへんの価値観がシフトした。

凄く自然体の受け止め方と生き方ですね。
実感として血肉になってる感じが伝わってきてすごいよかったです。
ありがとうございます。
なんこう・・うまく伝わるかいろいろ考えながら書きましたが、コメントを頂いて救われた感じがしました。
関西に来てから、いろんなものをそぎ落として、考え方がどんどんシンプルになっていっている感じがします。