2010年07月01日
【回想録】死と向き合う。
俺の戦友でもあり、おっきい弟のような存在だった、
あべはりさんが亡くなって一年が過ぎた。
まだまだいろんな思いがあるものの、
あべさんの死も、俺の中で受け入れられつつあるというか、
なんとか消化できてきたような気がする。
思えば、爺ちゃんや婆ちゃんや親父といった、身内の死以外にも、
40年も生きていれば、いろんな死と向き合うことも多い。
ちょっと、そんないろんな死を回想してみようと思う。
20年くらい前、俺は、あるマーチングバンドの指導員をしていた。
その、マーチングバンドのメンバーで、当時中学2年か3年だった、
Tちゃんという、明るく活発な女の子がいた。
が、しかし、肝臓を患って入院したと思ったら、
容態が急に悪化し、あっという間にこの世を去ってしまった。
入院時、マーチングのメンバーとお見舞いに行ったとき、
黄疸は出ていたものの、Tちゃんも至って元気だし、
しっかりと治療すれば治ると言われていたので、
俺たちも半ば楽観的に考えていた。
ところがその数日後、あっという間に・・。
病院からご遺体が家に帰ってきたときに、
俺も半ば信じらないながらもお線香をあげに行ったが、
冷たく動かなくなったTちゃんの亡骸の横で放心している、
Tちゃんのお母さんの姿が、今でも忘れられない。
俺は、その時初めて、身内以外の死に直面して、
あまりに突然の出来事に、悲しいも悔しいも、何の感情も無く、
思考が停止してしまった。
どうしていいのか、気持ちをどこに持っていけばいいのか、
当時はわからなかったんだな。
それから約1年後のある日、仙台港の埠頭に車を停め昼寝をしていたら、
まわりが騒がしくて目が覚めた。
海に向かってたくさんの人が叫んでいる。
何かと思って近寄ってみたら、女の子2人が乗った軽自動車が海に転落し、
中で女の子たちがもがいている。
その後、あっという間に海に沈んでいってしまった。
後に、19歳の女の子2人が亡くなったとニュースで知った。
ショックだった。
話は変わって、その後、トラックの運転手になったわけだけど、
当時、俺と年がとても近いKという男がいた。
ただ、Kは、とにかく運転が荒く、
トレーラーのくせに無茶苦茶にかっ飛ばすヤツだった。
ある日、Kと積み込みが一緒になり、
「あんまり飛ばすなよ−。事故るぞ−。」
なんて話をしていたんだけど、その次の日の朝、
Kは、小国峠で、スピードを出しすぎてカーブを曲がりきれず、
崖から転落して死んだ。
Kには奥さんと子供がいたが、葬儀の時の奥さんのあまりの疲弊した姿が、
とても痛々しくて見ていられなかった。
その後、福島県の郡山に住む無線クラブの友達で、
俺よりもずっと年上だった、ニックネーム「花一輪」さんも、
正面衝突であっけなく死んだ。
花一輪さんが亡くなる数日前、郡山で一緒に酒を飲んで、
カラオケを歌いまくって、笑って笑って、本当に楽しかったんだよ。
「わこうちゃーん!また飲もうなー!」
と、にこやかに手を振っていたのが、俺が見た最後の姿だった。
花一輪さんは、体中刺青が入ってて、ボクシングをやっていたのでガタイも良く、
「殺しても絶対死なねーなー。」なんて冗談で言っていたのに、
あっけなく死んでしまった。
お焼香に行ったときは、本当に胸を裂かれるような思いだった。
その後、会社の先輩のYさんも、過労がたたって、
スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれず、田んぼにトラックごと突っ込んで死んだ。
Yさんも、亡くなる日だったかその前日だったか、
会社で会って他愛のない話をした矢先だった。
俺がトラックを引退してからも、俺がトレーラーの会社に入ったときに、
一番面倒を見てくれた、ほまれさんという先輩が、心筋梗塞で、42歳で死んだ。
ほまれさんが死んだときのことは、この過去記事をどうぞ。
その後、俺のトラック時代の仲間、Mさんも、
ある日突然自殺してしまった。
原因は、いろんな憶測があるけど、今でもよくわからない。
遺書も無かったからだ。
奥さんも、「私に何も話してくれなかった・・。」と悔しそうに泣いていた。
と、ここまで淡々と書いてきたが、海に落ちて死んだ2人の女の子の時も、
小国峠で死んだKも、花一輪さんも、Y先輩も、ほまれさんも、自殺したMさんも、
誰かが死ぬたびに、いつも同じことを思った。
俺にできることは無かったのか?と。
そして、もっとこうしていたら・・とか、
こうしていれば防げたかもしれない・・とか、
ネガティブなスパイラルにはまって、どんどんと自分を責めていく。
「たられば」のオンパレード。
もう、とにかく無力な自分がイヤになったりもした。
無責任な自分にも。
しかも、Kや、花一輪さんや、Y先輩とは、
無くなる直前に会っていたり話をしているわけだから、
「俺はひょっとして死神何じゃないか?」と、真剣に思ったりもした。
逆に考えれば、なんで死ぬ直前の人たちと関わることが多いんだろうと。
だからなお一層、自責の念が強くなる。
本当に悲しく、苦しかった。
でも結局、タイムマシンがあるわけでもないし、
我々は、前に進むしかない。
未来に向けてしか、時間は進まないのだ。
当たり前のことなんだけど、当たり前のこととして受け取れなかった。
じゃあ、なんで今は受け取れるのか?
いや、何も難しいことじゃなくて、もしも俺が死ぬ側だったらどうだろう?と考える。
もしも、俺が死ぬ側だったとしたら、
自分が死んだのは、どこまでいっても自分の責任で、
誰を責めたり恨んだりすることは無いだろうなーって思う。
意図的に殺されたんだったら話は別だけど。
ましてや、Kの時も、花一輪さんの時も、Y先輩の時も、
俺は死ぬ原因に直接関与していない。
なんか、半ば無理やり理由をこじつけて、
自分に責任があるように感じようとしていた節もある。
そういう自分に酔いたいというか。
「俺はこんなに悲しいんだぞ。」
と、いう気持ちを、無理やり、「もっとこうしていたら・・。」とかって、
「たられば」にこじつけていた。
その方が、なんかそれぞれ、死んでいった人たちに対して、
罪滅ぼしできるような気がするからだ。
だけど、俺が逆の立場だったら、そんなことは望まない。
「死因と直接関係の無いところで、
いつまでもグジグジ考えてるんじゃねーよ!バカ!」
って思うだろう。
自分が死んだせいで、
生きている人が歩みを止めないでほしいと思うだろう。
もちろん、悲しいものは悲しい。
それはそれで当たり前の感情だ。
だけど、この世に残された側の問題は、
あくまでも、どこまで行ってもこっち側の、さらに言えば自分の問題なのだ。
死んだ人にとっては、どうでもいいことというか、関係無いことなのだ。
大事なのは、その死から何を学び、何に生かすのか?
ということしか無いんだと思う。
だって、何回も書くけど、
生きている俺たちは、未来に向かってしか進めないんだから。
だから、去年の今頃に亡くなったあべさんも、
去年の暮れに亡くなった、もう1人のあべさんも、
2人とも大切な友達だったし、亡くなったのはすげぇ悲しいけど、
だけど、後ろ向きな「たられば」や、悲しみに暮れて歩みが止まるようなことはしたくない。
むしろ、亡くなった人たちに対して失礼だ。
生きてるんだから、生きていることに胸を張って、
感謝しながら精一杯生きる。
そして、亡くなった人たちに対しては、
どこまで行っても、「ありがとう」だ。
その死を以て、その死と向き合って受け入れることで、
自分は大きく成長できる。
北斗の拳で、ケンシロウも言っているじゃないか。
亡くなった人たちに対して、
「お前も俺の中に生きている。」と。
だから、あべはりさんだって、あべひげさんだって、
俺の中に生きてるんだよ。
未だに、悲しくて胸が張り裂けそうになることもあるけど、
でも、それはそれ。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、「あべさんたちが、もうこの世にいない」ということだけが真実だ。
それにまつわる解釈や感情は、変えることができる。
どうせ変えられるんだったら、前向きに変えたいし、
俺が死んだときも、残された人たちにはそうしてほしいなーと思う。
あべさんが亡くなって、一年が経った。
もう充分悲しんだ。
もうそろそろ、それをバネにして、力に変えて、前に進みたい。
あべはりさんの一周忌に際し、感じたことを書いた。
あべさん、ありがとう。
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