2010年03月07日
【回想録】イジメ。
先日、回想録を書き始めて、俺が中学校時代にイジメにあっていたことに触れた。
今日はその話を書こうと思う。
今、このBLOGを見ていただくとおわかりの通り、
俺は昔から、メカものだのそういった類のものが大好き。
それは、子供時代からだ。
子供時代は、そのツールが「おもちゃ」になるわけだ。
とにかくおもちゃが好きで、電子機器やプラモ、モデルガンなど、
買ってもらったり自分で買ったりした物がたくさんあった。
中学校一年生のころ、
よく、学校におもちゃや自分が作ったプラモなんかを持っていって遊んでいた。
最初は、俺だけじゃなくて、当時一緒に遊んでいた友達も、
家からおもちゃを持ってきては、学校でよく遊んでいた。
が、今思えば、俺たちがそうやっておもちゃで遊んでいた裏で、
そのおもちゃが欲しくても手に入れられなかった人たちからすれば、
俺は疎ましい存在だったんだと思う。
それに加え、当時の同じ学年で、
後に学校を代表する不良グループ(←表現が古い)と、仲が悪かった。
もう、イジメの理由としては充分だな。今思えば。
そんなこんなで、中学校一年の三学期あたりから、
最初、クラスのヤツらから無視されることから始まって、
少しずつイジメがエスカレートしていった。
なんつったって、首謀者たちが、学年で一番の不良なわけだから、
影響力が大きいわけよ。
だから、その不良グループにへつらっているヤツらが、
まず最初にイジメに荷担してきた。
俺がよくおもちゃを学校に持っていって遊んでいたもんだから、
「おもちゃキング」、略して「オモキン」とあだ名をつけられ、バカにされた。
休み時間になると、いろんな物が飛んできたり、水鉄砲で水をかけられたり、
「おもちゃなんか持ってきてんじゃね−よ、バーカ!」
なんて罵声を浴びたり、後ろから叩かれたり。
まーずやりたい放題。
こういう時の集団心理っていうのはおっかないね。
で、だんだん、俺と一緒に遊んでいた友達まで、
イジメ側に荷担してヘラヘラ笑っていた。
初めて、「裏切り」とか「寝返り」っていうのを体験した。
いやー、ショックだったね。
で、だんだんとそれはエスカレートし、担任の先生にまで矛先が。
結局、授業にならないほど暴走。
担任の先生は、ショックのあまり入院してしまった。
俺の中学校では、こんな大規模なイジメや暴走は初めてだったみたいで、
とにかく、学年全体を巻き込む大きな騒ぎとなっていった。
「オモキンなんて死んでしまえばいい。自殺しろ!」
「わこうたかひろを呪い殺す会を作ろう。」
銀縁めがねをかけた、ガリ勉タイプのヤツらまで、
調子に乗りやがってそんなことを大声で叫んでいた。
渦中の俺は、当然、学校に行くのがイヤでイヤで、
学校に行くことを考えただけで腹がキューッと痛くなったもんだった。
両親にも相談したが、具体的な解決策は無く。
とにかく、
「休めば休むほど、学校に行きづらくなるし、相手が図に乗るぞ。」
というのが精一杯。
両親も辛かったと思う。
結局、3日だけ学校を休んだが、あとは休まずにひたすら学校に行った。
とにかく耐えた。
いやー、しんどかったー。
授業の終わりのチャイムがどれだけ待ち遠しかったか。
そして春休み。
学年が上がることに伴い、クラス替えがあったわけだけど、
学年の先生方が、たぶん、考えに考えたであろうクラス編成が発表された。
イジメの首謀者である不良グループや、
それに影響されている主要メンバーは、見事なほどバラバラに配置された。
今思い出しても、あの采配はすごいな−と思う。
こう・・物理的に分散させることで、沈静化を図る意図がビシビシと感じられた。
当時の俺の学年は8クラスあったから、本当にバラバラよ。
そして、二年生に上がり、多少、尾を引いた部分もあるにはあったけど、
一時の暴走のような状態は嘘のように消え、
先生方の思惑通り、イジメは自然消滅していった。
まぁ、結局、クラス替えがあって、みんなそれぞれ新しい環境になって、
俺をイジメることよりも、新しい環境に馴染むことの方が重要だったんだと思う。
こうして、イジメは物理的には沈静化したわけだけど、
俺の中には大きな傷がまだ残っていた。
・友人に裏切られたショックにより、また裏切られるんじゃないかという疑心。
・俺のことを陰であざ笑ってるんじゃないかという被害妄想。
・上記2つの理由から来る人間不信。
街を歩いていて、知らない人とすれ違うとき、チラッと俺の方を見たり、
話しながら歩いてきた二人組が、笑っているのを見ただけで、
「俺の何かがおかしいんじゃないか?」と、
ヘアスタイルや服装をチェックしたり、ニオイを嗅いだりして、
とにかく落ち着かなかった。
と同時に、自分への自信が無くなっていった。
この被害妄想は、2〜3年続いたが、
ある日、意を決して、友達にそのことを打ち明けてみたら、
俺が思っていた以上に、周りは俺に、いい意味で無関心だったことがわかって、
すごーくホッとしたことを覚えている。
「なーんだ。俺が思うほど周りは俺を見ていないんだ。」
と。いい意味でね。
中学二年に上がって程なく、
高校を卒業した先輩から、ボンタンを1本もらった。
ボンタンをはくことに憧れていたし、うれしかったんだけど、
初めて学校にはいていく前の日は、緊張のあまりよく眠れなかった。
またいろいろ言われたり、イジメが再発したりするんじゃないかという不安で。
で、ドキドキで学校にはいていったわけだけど、
確かに、イジメの首謀者グループだったヤツの一人が、
「あー!オモキンがボンタンはいてるー!」
とは言ったものの、それ以上は特に何も無く。
けっこう、みんな俺に良い意味で無関心だった。
それに輪をかけて、俺は中学一年の時から応援団に入っていたわけだけど、
とにかく応援団が好きだった。
二年に上がったとき、応援団ってとかく目立つし、
イジメにあっていたくせに、応援団なんかやったら、
また目立ってしまうからおっかないっていう感情はあったんだけど、
とにかく応援団が好きだったから、そのまま続けた。
そんな思いを知ってか知らずか、先輩から副団長に任命され、
より一層目立つ場所に出ざるを得なくなった。
もうそうなったら腹くくるしかないよ。
半ば、ヤリでも鉄砲でも持ってこいって心境で、副団長に挑んだ。
ある日、同じクラスのヤツから、
「おまえ、一年の時にあれだけひどいイジメにあったのに、
よく副団長なんてやれるよなー。」
と、言われた。肯定的なニュアンスで。
うれしかったねー。
ちゃんと、見てくれている人は見てくれているんだなー。
それだけで、なんか救われた感じがした。
そして、余談だが、三年に上がり、晴れて応援団長となり、
中学、高校と、応援団長2連覇を達成したわけだ。
高校のころ、よく周りから、
「わこうは動じないヤツだ。」
と言われていた。
それは、やはり、あの怒濤のようなイジメを耐え抜いて、
自力で乗り越えた経験があっての事に他ならない。
振り返れば、あのイジメだって、俺にとっての最高の心の砥石だったわけで、
多感な時期に、あんな貴重な体験ができて良かったな−って思う。
当時は、ホント大変だったけどねー。
俺の人生の中で、このイジメの体験は、
「あの体験に比べれは」
っていう、ネガティブを測るものさしのひとつであり、
大抵のことは、このものさしで測ればクリアできる。
まぁ、他にも、ものさしはいっぱいあるんだけども。
そういう意味では、この出来事に、本当に感謝している。
もし、当時のイジメの首謀者たちが、
知らないで俺の店にコーヒーを飲みに来たとしても、
俺は普通にコーヒーを淹れるだろう。
別に恨んでないし。
そう考えると、この世に起こる出来事には、
なにひとつ無駄は無いんだなーって思う。
感謝だね−。感謝。
ドM?
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うう……そんな、学校始まって以来の「いじめ」に遭われた経験があったなんて……。使い方間違っているかもですが「ヒトに歴史あり」ですね><
私も、小学校6年のときに「いじめ」に遭いました。クラスの男子全員から嫌われたんです。やっぱり変な仇名をつけられて、バイキン扱いされました。
そして、やはり陥った人間不信、被害妄想、自意識過剰……。
でも。
大学に入ってアルバイトをしていた某レストランに、「いじめ」の首謀者の男の子が来店したんです。私を見つけて、
「ゆららさんでしょ??」
と親しげに声をかけてきました。
はぁ〜……わからないもんですね、人間って。
烏合の衆が、その場のノリだけでまとまって・・・。悲しくなる。
なぜ?
本質的に人間に備わっているのかねー?
自分を偽る虚勢?ダサい協調性?
ひとりでは、イジメることなんてできないのにさ。
自分の場合は、中学の時に女子によるシカト。
何気ない言葉の誤解から一年間、3年生の時に卒業までねー。
恐怖なんて感じなかったけど、痛かったなー
ここに居るのに・・・。
自分から、その場を離れるようになった。
だって、ひとりのほうがラクだった。さみしいけど、苦しいよりマシだったし。集団の中のひとりより、はじめからひとりを選ぶようになってた。
今も、そんな傾向かも?
ここ数年、やっと素でいられるあたたかい場所を見つけ出した感じがする。
わこうちゃんの、この記事を読んで思い出した感覚があるよ!
はじめて会った時の感覚、『なんか、ん!?』みたいな感じ。
ちょっとだけ、メカニズムが解明した気がするよ。
ドM? わはははー
そのほうが、ひとに優しいって。
アタシのときとは大違い
いまだに、尾を引きずって歩いてるアタシ
この前とあるトラブルに巻き込まれて
やっと目が覚めた感じ
わこうさんはそのとき、見事に這い上がった。
アタシはこれから、いまからだな。