2012年05月13日
いろんな覚悟で関西に来ました。
先日、仙台から芦屋までの引越しの状況は記事に書いたけど、
心情的な部分は書いてなかった。
そもそも、なんで関西移住を決心したのか。
過去にはいろいろ書いてきたけれども、
まとめると、決定的な「これ」といった理由がないかわりに、
様々な複合的な理由が重なって、移住を決めた感がある。
主な理由は、
・りえさんの体調が思わしくなかった。(喘息の発作が増えた)
放射能なのかがれき粉塵などによるものなのかはよくわからない。
・東北の復興を願うにあたり、
俺は業種的にあんまり外貨(東北以外からという意味)を稼げないので、
東北の中で東北のお金を回すんじゃなくて、
東北から出て、外側から復興支援ができないかと、本気で考えた。
・トラックの運転手をしていたこともあり、
東日本はすべて網羅したというか、行ったので、
今度は、西日本を網羅してみたいと思った。(漠然と)
・ずーっと仙台にいて、長い年月をかけて、仙台ではたくさん人脈もできたし、
いろんな業界に精通している人たちに出会ったり、深く関わることができた。
だけど、もう一度、自分のことを知らない人たちだけの土地で、
自分がどれだけのことができるのかを試してみたい。
・お遍路巡りをしたい。できれば何回も。
・大阪府民ではないけれども、維新の会がどれだけのことができるのか、
近いところで見てみたい。
・東北では無いような西日本の文化を知ることは、
日本人として、とても大事なことのような気がした。
と、まだ細々した理由はあるものの、ざっとこんな感じだ。
その理由が、はたして自分の店をたたんだり、
親しい友人や仲間と別れたりしてまでの大切な事なのかと問われたら、
正直「わからない」としか言えない。
前述のとおり、決定的な「これ」という理由があったわけじゃないから。
でも、なんとなくなんだけど、導かれてこっちに来たっていう、
引力というか不思議な力というか、ご縁というか、
そういったものは感じている。
いや、なんとなくじゃないね。ここ数日ビシビシ感じてるね。
移住を決意したのが去年の12月ごろ。
そのあたりから、いろんな変化が起こり始めて、
引越し数日前には、メガトン級の決定的な出来事があり、
天から「腹くくれよ」と、引導を渡された気分になった。
「お前、関西に逃げるんだってな。そうやって一生コソコソ逃げてろバーカ」
的な内容のメールが知人から来たと思えば、
同じ日に、アル中の義父(おふくろの再婚相手)から電話がかかってきて、
断絶宣言をされた。
メールの件は別にいいとして、
義父とは以前からいろいろあって、
今年の正月に、おふくろの今後と義父のアル中のことで大喧嘩した。
そのことを義父はずーっと恨んでいたらしい。
思い出しては怒りがこみ上げてくるらしく、
ついに堪えきれずに電話をしてきたのだ。
そして、
「二度とうちの敷居はまたがせない。二度と来るな。」
と、断絶宣言された。
おふくろは、一年前に脳溢血で倒れたが、病院に運ばれるのが遅れて、
半身麻痺と重度の失語症になり、一年経ったが症状はあんまり変わらない。
今後の介護のことに、義父のアル中がとても障害になるので、
そのことで何度も話し合いを持ったが聞く耳を持たず、
ついに俺がブチ切れたのだ。
それが今年の正月の大喧嘩。
それでもおふくろは、義父と暮らすと決め、
「わたしはここ(実家)で死ぬ」と言った。
たぶん、おふくろなりに考えて、
俺に介護させたくないからそう言ってるんだろうなと。
話は戻って、電話口で義父が、
「お前の母親だから最後に電話で話をさせてやる。」
と言って、おふくろと電話を替わった。
俺は、正月の喧嘩以来、実家に出入り禁止されていたので、
それ以来おふくろに会っていない。
義父に断絶されるということは、これからもそうなるので、
もしかするとこのままおふくろに会えないで終わるかもしれない。
だから、事実上最後のおふくろとの電話。
電話口で、おふくろに、数日後に関西に行くこと、
会えなくなるからごめん、そして、今までありがとうございましたと伝えた。
おふくろは、わかってるんだかわかってないんだか、
「へー。ふーん。」
と言っていた。
後遺症がひどくてあんまり理解できてない感じだった。
なんだか肩すかし食らった感じ。
なんだかこんな形で終わるのも変なんだけども、
逆にこれで最後のふん切りがついた。
7年間やってきた自分の店もやめ、友人や仲間たちと別れ、
実家やおふくろとも別れ、いろーんなものを終わらせたり捨てたりして、
いろんな覚悟で関西に来ました。
関西に来て4日目の朝、
大変お世話になった叔父が亡くなったと連絡が入った。
2日後には通夜、そして告別式。
ずいぶん悩んだんだけども、
GWで飛行機も取れないし、取れたとしてもメチャクチャ高いし、
亡くなった叔父には本当に申し訳なかったんだけども、葬儀は欠席した。
火葬される時間に、こっちで手を合わせた。
そのとき、仙台〜関西の物理的な距離を感じたね。
絶対的なものであって、その距離はどんなことがあったって縮まらない。
俺はそういうところに来たんだと。
そういう道を選んだんだと。
それがより一層、西で生きていく覚悟に拍車をかけている。
あらためまして、関西の皆さん、そういう覚悟でこっちに来ました。
こっちで精一杯生きてみようと思います。
よろしくお願い申し上げます。